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(翰文网中日对照)天才艺术家与其个人主义

作者:未知 文章来源:翰文网 点击数 更新时间:2011-3-21 8:57:01 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

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天才芸術家とその個人主義

 

美術に関する歴史的著作の模範とされた「芸術家列伝」(1550)を書いたヴァサーリは美術家が激しく何かに取り憑かれたように仕事をする姿を詳しく伝えている。芸術家の多くは仕事に取り憑かれることの成り行きとして、衣服や身の回りの小綺麗さ、食事、家族、公務など手短に言えば愛着の対象以外は一切無関心になる。

 

以下に彼の美術家の特異な性格の多数の記述を挙げてみたい。

 

マサッチョ:世事に全然関心のない無頓着な放心者であった。

ルカ・デラ・ロッビア:日夜仕事に没頭して肉体的な苦痛を忍耐強く辛抱していた。

パオロ・ウッチェロ:世事を全く無視し透視図法の法則解明のみに熱中して隠者のような生活を送っていた。

バルトロメオ・トリ:解剖学研究に熱中しすぎて死体の断片を自室やベットの下までしまっておいたため、ついに師匠のジュリオ?クロヴィオから追い出された。

 

このような逸話は後の世代の人々にとって卓越した美術家の個性溢れる特徴を照らす手助けとなった。

 

また、芸術家は活動と休止の時期が極端に分かれていることも指摘している。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは「最後の晩餐」制作中、夜明けから日暮れまで足場の上で飲食も忘れて描き続けた。すると二、三日から四日もの間作品に触れようとしないまま同じ場所で、日に一から二時間も瞑想に耽っていたようだ。このような内省は孤独を深め孤独と秘密は、後の多くの美術家の証明となった。

 

全歴史を通して最大の個人主義の美術家は、ミケランジェロと言えるだろうが、彼は仕事中教皇さえも仕事場に入れることを拒んだのだという。彼の恐るべき迫力は、その性格の猛烈な激しさとその芸術の崇高する代名詞となった。教皇ユリウス二世はかつて謁見の席で、「彼はあなた方も知るとおり恐ろしい人だ。誰も扱える人ではない」と語ったそうだ。

 

しかし美術家は大昔からそのような振る舞いを許されたわけではない。ギリシャ人は手仕事を生計とする人々を軽蔑し、奴隷以上の身分とは見なかった。価値を認められたのは、職人の技巧でありそれ故美術家は床屋、料理人、鍛冶屋の仲間と見なされていた。しかもプラトンやアリストテレスでさえも視覚芸術を音楽や詩より低い地位においた。その後、ネロやハドリアヌス、マルクス?アウレリウスらのローマ皇帝の中に一時的に自ら絵画や彫刻を制作するということは、身分に相応な気晴らしと見たがその傾向はローマ帝国衰退と滅亡と同時に忘れ去られ再び美術家は何世紀もの間職人、工人の身分におろされた。

 

13世紀以降、西ヨーロッパ都市の労働人口が次第にギルドとして組織化されると、美術家は容易く個性を主張できなくなった。14世紀から15世紀においてさえギルドは子弟の教育から裁判権行使に至るまで全員を拘束するほどだった。

 

このような強い圧力の中最初に多くの近代化特徴を示す個人主義的美術家が生まれたのは、ヨーロッパで最も進んだ都市国家?フィレンツェであった。そこは高度に発達した個人主義を具え自由と進取の気性に富み、進歩的な競争精神を持つ進行承認階級の美術庇護者はそのような美術家達に価値を見いだしていった。(その当時のイギリスでは、以前大方の画家は下層職人の地位に置かれたままであり「似顔絵描き」として馬車塗師や家屋塗師と並ぶ地位で画家?染工組合に加入させられていたままだった)

 

しかし、早くも16世紀半ばには欠点や奇行に自惚れる規則破りの美術家は、時代遅れになっていた。当時美術家は、社会への選良や知的選良と慎ましく溶け込まねばならないと考えられた。G.B.アルメニーニの「絵画の殿堂の理念」では美術家は、粗野、狂気、矯激の悪徳から身を守り、乱れた仕草や厭らしい言葉で独創性を狙ってはならない、と強く戒めている。世に合わぬ行状を見せびらかす美術家を時代は否認するようになり、変わって新たな美術家像を造って唱えた。それは、周りに適応してゆける育ちのよい理性的な哲学者=芸術家で、あらゆる長所と美徳を生来豊かに具えた人のことである。中にはまだ型破りの画家がいたにせよ、ルーベンスやベルニーニ、ルブランやレノルズなど偉大な紳士にして偉大な個人主義が臨機応変で、気取らず育ちのよい魅力的な社交の人という178世紀の理想的美術家像を見事に具現したと言える。

 

だがようやく18世紀後半になると、主知主義から直覚的芸術理解への転換が主導権を取り始める。その反逆が最もよく表れているのはウィリアム?ブレークが「観念で、思考で、描く絵、こいつらは皆気違いの絵だ。間違いなく。」と理性の統治に侮蔑を表した言葉だろう。レオナルド??ヴィンチも「絵画は生来の才能なき者には教えてやれない」と述べ、アルティーノは「芸術は惜しみない自然の贈り物、ゆりかごで我らに与える。」と述べた。

 

この美術家への理解は現在にも至る。

 

天才艺术家与其个人主义

 

瓦萨里在其1550年写的那本著名美术专著《艺术家列传》中详述了众多美术家如醉如狂的工作身影。他们中许多人都因痴迷工作而变得不拘小节、不修边幅。简言之,除对艺术依依不舍外,他们连吃饭、家庭、乃至公务均漠不关心。下面就列举这些艺术家特异性格的种种行状:

 

马萨乔         对世事全然不关心,是位凡事都漫不经心之人。

卢卡·德拉·罗比亚    日夜埋头工作,对肉体的痛苦有着超强的忍耐能力。

乌切洛          对世事全然无视,只沉迷于搞清楚他的透视图法则,过着隐居生活。

费拉·巴托洛米奥    沉迷于解剖学达狂热地步,以至于将尸体碎块放在自己屋内床下。为此,最终被他的老师朱利耶·克劳维奇将他逐出师门。

 

像这样的逸闻已被后世人们视为一个卓越艺术家个性洋溢的表现了,艺术家的行止也往往被人们津津乐道。据说莱昂纳多··芬奇在画《最后的晚餐》时就从早到晚在脚手架上作画,忘记吃饭。而后就是23天,34天不碰作品,只在工作的地方沉醉于冥想。像这样的内省被后来许多美术家证明会更加深化在孤独中的艺术家内心的孤独与秘密。 纵观历史,最大的个人主义美术家非米开朗琪罗莫属,据说就连教皇进入他正在工作的现场都会遭到其拒绝。米开朗琪罗那惊人的感染力已经成为他激烈异常的性格特质和崇高艺术的代名词,连教皇尤里乌斯二世在接受人们拜谒时都说:正如您们所知的,他是一位可怕的人,谁也做不了他的调停人。

 

但是在上古时代,美术家的这种行径是不被准许的。希腊人对以手工为生的人持轻蔑态度,将他们视为和奴隶身份没啥区别的人。那些被认为有价值的怀有技巧的工匠反倒是美术家的理发师、厨师、铁匠们。并且就连当时的柏拉图和亚里士多德也将视觉艺术置于音乐、诗歌之下的位置。其后虽然在尼禄、哈德良、马可·奥勒留这些罗马皇帝中兴起了亲自绘画、雕塑之风,且将此视为与自己身份相符的消遣,但随着罗马帝国的消亡,此风也渐被人们忘却。几个世纪中,美术家的身份又降至工匠、工人之地位。

 

13世纪以后,西欧都市里劳作的人们相继组织起了同业公会,这使原本容易张扬个性的美术家们受到抑制。14世纪到15世纪,同业公会的权力范围逐渐扩展,从教育子女到行使审判权,因此也起到了约束参加同业公会全体成员的作用。在如此强大的压力下,最初在欧洲最先进的城邦国家佛罗伦萨就产生了许多显示近代特征的个人主义美术家。在那里,具有高度发达的个人主义和富于自由进取秉性及富有进步竞争精神、推进阶级认可的美术庇护者发现了美术家的价值。(在当时的英国,以前大部分画家都身处下层工匠地位,作为肖像画家也只能与马车油漆匠及房屋油漆匠并列,只被允许加入杂工行业公会。)

 

然而很快,到了16世纪的中叶那些对自己缺点和古怪行为还自命不凡的画家已为时代所摒弃,当时社会的公认标准认为美术家应是从社会优选而出,应是具有优良智慧和谨言慎行品质的人。在乔凡尼的美术著作《绘画殿堂的理念》一书中他强烈告诫美术家:在粗野、狂放、过激的不道德面前要守身自律;不要以混乱的举止和令人生厌的语言来标新立异。不合时世炫耀行状的美术家时代已被否定,代之而起的是新美术家形象的有力倡导。在此大环境下于是就培育出了有着良好理性并适应周围社会的哲学家和艺术家,他们都是具有许多优点和美德的人。虽然在他们之中仍有不墨守成规的鲁本斯、贝尼尼、伦勃朗、、雷诺兹等画家,但他们会在不同场合将既是伟大的绅士又是伟大的个人主义者的品质变换得自如洒脱。可以说他们是无丝毫做作而又教养良好且具有魅力的社交人才,他们的行为是1718世纪理想的美术家精彩的体现。

 

可终于对直觉艺术的理解又获得了主导权从而取代了唯理主义,其最为叛逆的就是威廉·布莱克,他曾对理性的统治轻蔑地说过这样的话:以观念、思考作画,这都是疯狂的画,没有错。” 莱昂纳多··芬奇也说到:绘画,对于那些已故的天才们来说是不用教的。阿尔蒂诺也说:艺术是慷慨的自然恩赐之物,就如同我们得到的摇篮。这种对美术家的理解延续至今。

 

 

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