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日本历史人物:鬼副长土方岁三(中日对照)

作者:来源 文章来源:今日 点击数 更新时间:2015-5-14 11:27:04 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

文久3年(1863)2月に清川八郎が江戸で「京都防衛のため」壬生浪士隊を募集すると、近藤と共にこれに参加しました。しかし清川は一行を京都まで連れて行くと、浪士隊の目的は尊皇攘夷であると言い出したため、空中分解。清川は江戸に戻り、のち暗殺されます。


文久3年(1863)2月,清川八郎在江户招募“为防卫京都”的壬生浪士队,岁三于是和近藤一同参加了浪士队。但是清川将这一行人带至京都后,因明言浪士队的目的是为尊皇攘夷队伍中途解散。清川回到江户后不久就被暗杀。


一方、京都に取り残された近藤や土方たちは京都守護職の会津藩主松平容保に願い出て、同年8月「新撰組」を結成。初代局長には芹沢鴨が就任しました。


另一方面,仍滞留京都的近藤、土方等人向京都守护会津藩主松平容保请愿,同年8月组成了“新撰组”。芹泽鸭就任第一代局长。


しかし芹沢は傍若無人の振る舞いがあり、9月18日土方らにより粛正。代わって近藤が2代目局長になりました。この京都での近藤局長時代の新撰組が最も輝いており副長となった土方と共に、尊王攘夷派や倒幕派の武士たちを次々に殺害していきました。


可是,芹泽鸭屡行目中无人之事,9月18日被土方清除。近藤取而代之担任新撰组第二代局长。(近藤)和成为在京都的近藤局长时代的新撰组最耀眼的副长土方一起,陆陆续续地对尊王攘夷派和倒幕派武士大开杀戒。


文久3年8月13日 火烧大和屋文久 3年 8月13日 大和屋焼き討ち


文久3年8月13日 火烧大和屋


元治元年 6月 5日 池田屋で長州藩士ら16名を殺害(池田屋騒動)


元治元年6月5日 在池天屋斩杀16名长洲藩士(池田屋骚动)


慶応 2年 9月12日 三条大橋で土佐藩士を襲撃し2名を殺害


庆应2年9月12日,在三条大桥袭击土佐藩士并斩杀2名


慶応 3年12月 7日 天満屋で海援隊と乱闘


庆应3年12月7日 在天满屋于海援队激斗


新撰組は慶応4年1月12日軍艦冨士山丸に乗って江戸へ向かい、官軍に対抗しようとしますが、局長の近藤勇は捕らえられて江戸板橋で処刑され沖田総司も病死します。


庆应4年1月12日,新撰组乘上军舰富士丸进军江户欲与官军对抗,而局长近藤勇却被捕,并被处死于江户板桥,冲田总司也患病而死。


そこで今度は土方が組の中心となって、会津にいったん集まった後、会津での戦いのため斎藤一らを置いて、残りは函館五稜郭に移動。結局ここで幕府軍の最後の抵抗に参加しました。


于是土方成为新撰组的中心人物,在会津暂时集合人马之后,斋藤一等人为参加会津一战而留在当地,其余人等移师函馆五稜郭。最后在这里参加幕府军的最后抵抗。


明治2年(1869)5月11日、松前表街道で軍を指揮中に腹部に官軍の銃弾を受け死去。享年35歳。


明治2年(1869)5月11日,土方在松前表街道指挥部队时身中官军炮弹身亡,享年35岁。




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