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日本历史人物之源赖朝(中日对照)
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作者:来源 文章来源:今日 点击数 更新时间:2015-5-21 14:39:57 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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建久9年12月27日、初めて武家政権を樹立した源頼朝が落馬して大けがをしました。この日、頼朝は稲毛重成の亡き妻の追善供養のため、相模川に掛けた橋が落成。その記念の式典に出席して帰りの出来事でした。源頼朝は平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源義朝の子供です。 建久9年12月27日,首创武家政权的源赖朝落马负重伤。这一天,赖朝为供养稻毛重成亡妻,出席搭建于相模川上的桥梁落成纪念仪式,回府时突遭不测。源赖朝是平治之乱中败于平清盛的源义朝之子。 平治の乱で勝利をおさめた清盛は源氏の主だった武将をことごとく処刑しましたが、まだ子供であった頼朝・義経の兄弟と従弟の義仲ら数名を助命しました。これが禍根を残すことになりました。この時14歳であった頼朝は伊豆に流され、平家一族の北条時政に保護されます。そしてやがて時政の娘・政子と結婚。ここで再起のチャンスを待ちました。 在平治之乱中大捷的清盛将源氏的主要将领一一处死,却留下尚未成年的赖朝、义经兄弟和表弟义仲等数人性命,这就留下了祸根。此时年仅14岁的赖朝被流放到伊豆,生活在属于平家一族的北条时政保护下。接着不久便与时政的女儿政子结婚,在伊豆伺机东山再起。 やがて治承4年(1180)4月9日、源頼政が以仁王(後白河上皇の皇子)の平家追討の宣旨を得て挙兵。この兵は制圧されてしまうものの、8月17日頼朝もそれに呼応して立ちました。戦いはこの後更に9月7日源義仲が木曾で挙兵。10月21日、源義経が頼朝に合流。翌年閏2月4日平清盛が病没すると次第に戦況は源氏の優勢となっていきます。 不久,治承4年(1180)4月9日,源赖政取得以仁王(后白河上皇之皇子)颁下的追讨平家的命令,举兵反抗。虽然赖政的起兵被镇压了下去,赖朝也继赖政之后于8月17日起兵。赖政之战又过了些时日后,源义仲9月7日在木曾举兵。10月21日,源义经与赖朝汇合。次年闰2月4日,平清盛病逝的使得天枰逐渐斜向源氏一方。 そして寿永2年(1183)7月28日、ついに源義仲が京都に入城。平家は西海に落ちていきます。翌年1月10日源義仲は征夷大将軍に任じられました。しかし義仲の兵の軍紀は良くなく、京都で乱暴、狼藉を働く者がありました。そこで頼朝は後白河上皇の意向も受けて義経を京都に派遣。義仲の兵を追い出して、これを倒しました。 接着,寿永2年(1183)7月28日,源义仲入京,平家逃散至西海。次年1月10日源义仲担任征夷大将军。但义仲军纪不良,在京都横行肆虐,麾下多有行为不端、举止横暴之人。因此赖朝在后白河法皇的授意下,派遣义经前往京都,赶走了义仲军队,讨取了义仲的性命。 頼朝は更に義経に西海の平氏の壊滅を指示。義経は天才的な戦術で、平氏を一ノ谷・屋島・壇ノ浦で破ってこれを滅亡させました。頼朝は清盛が自分らを助命したことから源氏の再起を招いたことから、平家一族らには一切情けを掛けず徹底的に殺害しました。 进一步,赖朝向义经下达了剿灭西国平家的指示。义经凭着过人战术在一之谷、屋岛、壇之浦大破对手,灭亡了平家。清盛饶了自己性命让源氏重振旗鼓,赖朝念及此事便毫不留情地将平家一族斩草除根,杀灭殆尽。 そしてやがて対立した弟の義経も奥州藤原に追いつめて殺害させ(文治5年-1189-閏4月30日)、実質的な日本の支配権を獲得しました。1192年7月12日、坂上田村麻呂・藤原忠文・源義仲につづく史上4人目の征夷大将軍に就任しました。征夷大将軍とは天皇から直々に節刀を授けて任命されるものであり、朝敵を倒すために非常大権を与えられた武士の最高位の称号です。そして頼朝はこの称号を拠り所にして天皇の代理者であることを主張し、本拠地と定めた鎌倉に政治を行うための「幕府」を設け、大江広元を中心にした政務執行体制を整備しました。 接下来不久,赖朝与弟弟义经矛盾激化,将义经赶到了奥州藤原氏的地盘上,使得弟弟被人所杀(文治5年-1189-闰4月30日),这样他获得了实际上统揽日本的权力。1192年7月12日,继坂上田村麻吕、藤原忠文、源义仲之后,赖朝就任史上第四位征夷大将军。征夷大将军接受天皇所赐节刀,直接由天皇任命,这是武士最高称号,被赋予了消灭朝敌的至上大权。于是,赖朝以这一称号为要挟,自称天皇的代理人,为了在被选定为大本营的镰仓处理政事,他设立了幕府,建立起以大江广元为中心的施政体制。 最初の頃、頼朝に付き従ってきた武士たちは「自分たちは頼朝様には従うがなんのために大江広元ごときに従わねばならないのだ」と不平を唱えたともいいます。しかし頼朝はこの「政治体制」を強引に施行。彼が作った体制はその後明治維新まで700年近く続くのです。彼は政治家としてのセンスも優れていたのでしょう。一方では頼朝は源氏の今後の繁栄のため、娘の大姫の入内の話を進めますが、これは建久7年(1197)11月25日のクーデターに巻き込まれてうやむやになってしまいます。そしてその1年後落馬。この怪我がもとで年けて1月13日死去。53歳でした。このあと鎌倉幕府の源氏の血は頼朝の息子の代で途絶えてしまいます。そして幕府の実権を握ったのは皮肉にも、平氏の一族である北条家でした。 刚开始,跟随赖朝的武士们抱怨“我等本为跟随赖朝大人,为何屈居于大江广元之流”,但赖朝强制施行了这个政治体制。他草创的这个体制此后延续近700多年长盛不衰,直到明治维新的时代。作为政治家,他也颇有远见卓识。另外,赖朝为了源氏今后的繁荣还曾考虑过让女儿大妃嫁入皇宫,但此事因卷进了建久7年(1197)11月25日的政变而草草了之。接着过了一年后,赖朝落马。因这一次负伤,赖朝在一年后的1月13日去世,享年53岁。此后镰仓幕府源氏血统断绝。讽刺的是,接下来掌握幕府实权的正是平家一族的北条家。
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