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日本历史人物之井伊直弼(中日对照)
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作者:来源 文章来源:今日 点击数 更新时间:2015-5-25 18:52:19 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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「桜田門外の変」で命を落とした幕末の大老 井伊直弼は文化12年(1815)10月25日に彦根藩第11代藩主 井伊直中の十四男として生まれました。普通ならこんな下の方で産まれた子が藩を継ぐことはあり得ないわけで、直弼もずっと部屋住みの身だったのですが、兄達がどんどん他へ養子へ出てしまった後、兄で藩を継いだ直亮に子ができなかったため弘化3年(1846)兄の養子となり、4年後兄の死に伴って彦根藩35万石の当主となりました。 文化12年(1815)10月25日,彦根藩第11代藩主井伊直中的第十四子、丧命于“樱田门外之变”的幕末大老井伊直弼诞生了。一般来说这样后出生的孩子是不可能继承藩业的,直弼也一直未能分家,而兄弟们却都陆陆续续成为养子离开了,后来因为继承藩业的兄长直亮未能产子,直弼于弘化3年(1846)成为哥哥的养子,随着4年后哥哥的离世他成为35万石彦根藩的藩主。 彦根藩は徳川家康の四天王の一人井伊直政の子孫です。直政が関ヶ原の戦いで亡くなった後、長男の直勝が大坂冬の陣に参戦できなかった為、次男の直孝の系統がこの藩を継ぎ、直勝の系統は上野安中藩に移りました。ここは譜代大名の筆頭とされており、また京都守護の密命を帯びていたともいいます。重要な家柄であるため何人もの大老を出しており、江戸時代に任命された12名の大老の内、実に5人が井伊家です。 彦根藩是德川家康四天王之一井伊直政的后代。直政阵亡于关原之战后,长子直胜因为未能参加大阪冬之阵,由次子直孝一系继承了这个藩,直胜这一系移往上野安中藩。彦根藩被视为谱代大名之首,也兼有任职京都守护的密令。由于重要的家世背景,彦根藩产生了好几位大老,江户时代被任命的12名大老中,实际就有5人出自井伊家。 黒船来航の処理をした老中阿部正弘が安政4年(1857)過労のため急死したあと、堀田正睦が一時政権を引き継ぎますが、物分かりの悪い朝廷の反対を押し切って安政5年6月19日、日米修好通商条約締結を断行、それと引き替えに4日後の23日、老中職を辞します。 在处理黑船来航的老中阿部正弘因过劳猝死于安政4年(1857)后,堀田正睦暂时接过政权,他不顾保守的朝廷反对,断然于安政5年6月19日签订了《日美修好通商条约》,在交换条约后的第4天23日辞去老中一职。 1853年黑船来航 井伊直弼が大老に就任したのはその極めて難しい時期のことでした。それ以前の彼の言動を見れば、直弼は決して開明派ではありません。むしろ心情的には攘夷派に近い所にあったのですが、実際に堀田正睦の後をついで政権を担当すると、そのような原則論ではどうにもならないことを認識しました。外国の脅威が目の前にある時、無意味な論争をしている訳にはいきませんでした。 井伊直弼就任大老正遇上这种困难时期。观他之前的言行可知,直弼绝非开明派,不如说在感情上有接近攘夷派之处,但在实际继任堀田正睦掌管政权后,他认识到那样讨论大是大非是无助于现状的。在外患迫在眉睫之时,不能进行无意义的论争。 取り敢えず彼は諸外国と条約を結んで、いきなり武力侵攻してくることはない状況を作り出し、その間に海軍力を急いで充実させなければならないと考えました。そのため彼はアメリカ以外のオランダ、ロシア、イギリス、フランスなどともアメリカと同様の条約を次々と結んでいきます。そして外国奉行を設置すると共に、各大名に外国製の武器を購入するように推奨します。万一どこかの国と総力戦になった時の用心ですが、結果的にはこの武器が数年後に官軍の主力となります 作为缓兵之计他与各国签订条约,制造出不能立即被各国武力攻击的形势,认为在这此期间必须迅速充实海军力量。为此他陆续与美国以外的荷兰、俄国、英国、法国等签订了同样的条约。接着在设置外国奉行的同时,鼓励各大名购买外国生产的武器。本是打算与某个国家进行决战时使用,结果这些武器数年后却成为政府军的主力。 しかしこのような重大な時期に当時はもうほとんど実権がなかったとはいえる将軍の徳川家定が死去。攘夷派はその中心人物の一人である水戸の徳川斉昭の息子で一橋徳川家を継いでいた徳川慶喜を後継に推していましたが、直弼は敢えて紀州徳川家の慶福(家茂と改名)を強引に後継に据え、斉昭には謹慎を言い渡し、徳川慶喜も登城停止処分にしました。 但是就在这一关键时刻,当时可以说已毫无实权的将军德川家定去世了。攘夷派力推其中心人物之一的水户藩德川齐昭之子、继承一桥德川家的德川庆喜作为将军接班人。而直弼却强行让纪州德川家的庆福(改名为家茂)作为后继人,让齐昭禁闭自省,对德川庆喜下达停止登城议政的处分。 更には各地の攘夷派のリーダーを次々と逮捕。開国反対派の公家にも朝廷に圧力を掛けて謹慎させ、強権で国をまとめようとします。これが安政の大獄で、橋本左内、吉田松陰らが処刑されています。 更加变本加厉的是,直弼接连不断地逮捕攘夷派领袖。又向朝廷施加压力对开国反对派的公卿处以禁闭,他意图以强权来整肃国家。这就是“安政大狱”,其中桥本左内和吉田松阴等人被处死。 “樱田门外之变”发生地——樱田门 これに対して直弼の強権発動に反発し、更には反米感情を持つ水戸藩士17名と薩摩藩士1名は藩を脱藩した上で、安政7年(1860)3月3日早朝、江戸城の近くの愛宕神社に集結。上巳の節句のため登城しようとしていた井伊直弼の行列を桜田門外で襲撃して、この命を奪いました。 面对直弼的强权政治,反对活动蜂起,更进一步,持反美态度的17名水户藩士和1名萨摩藩士脱藩后,安政7年(1860)3月3日早晨集结于江户城附近的爱宕神社,袭击了为庆祝上巳节准备登城的井伊直弼队伍,并取了直弼性命。 この後、江戸幕府はきちんと政治を動かすことのできる人物が現れず自己瓦解の道を突き進んで行きます。 此后,江户幕府再未出现过能有力推动政治大势的人物,在没落瓦解之路上一步步地走下去。
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