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日本历史人物:吉田松荫(中日对照)

作者:来源 文章来源:xdf.cn 点击数 更新时间:2015-6-5 13:55:08 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

 


密航計画


そのようなことがあった後、松蔭の心を大きく揺さぶる事件が起こりました。それはあの「黒船来航」です。松蔭は来航した黒船を見に行きました。その姿は松蔭に衝撃を与え、日本と西洋の差を痛感させました。その思いはやがて、自ら西洋に渡り、西洋諸国を知るという決意に変わってゆきます。師佐久間象山の教えの影響もありました。むろん、これは途方もない計画でした。幕府すら西洋諸国とはほぼ国交を持たなかった時代なのです。普通の人間なら、想像もできないことだったでしょう。しかし松蔭はそれを実際に行動に移してしまうのです。


偷渡计划


在此事件后,又发生了一起事件极大地震动了松荫的心,这就是“黑船来航”。松荫前去参观了来航的黑船,其外观给松荫带来冲击,使他痛感日本与西方的差距。怀着这样的想法,不久松荫决定亲自渡洋,了解西方各国,这其中也有老师佐久间象山教导的影响。无疑,这是个胆大妄为的计划。那个时代,甚至连幕府都还没与西方各国建立外交关系,普通人更是难以想象。而松荫却要展开实际行动。


偷渡事件史称“下田踏海”(吉田松荫与金子重辅)


まず松蔭は来航中のロシア船に乗り込もうと長崎まで行きます。しかし、松蔭が長崎に着いた時には船は既に出航しており、計画は頓挫しました。しかし松蔭は諦めません。続いて、再来航したペリーの船に乗り込むことを計画します。松蔭は停泊していた艦隊に小舟で接近し、なんと乗船することに成功します。しかし、上手く行ったのはここまで。アメリカ側が松蔭の乗船を拒否したため、計画は断念されました。要するに密航の手助けをしてくれ、ということですから、拒否されるのも当然のことでした。計画を失敗した松蔭は、密航を企てたことを自首します。その結果、松蔭は長州へと送り返され、投獄されました。なお、この件では佐久間象山も松蔭に連座し、蟄居させられています。


首先,松荫欲混入来航的俄国船,前往了长崎。可到达长崎时,船已经离港,计划失败。松荫仍不罢休,接下来又计划潜入第二次来航的佩里船。他摇着小船接近停泊的舰队,总算是上了船。然而好运到此为止,美国人拒绝了松荫乘船的请求,他因此打消了念头。不管怎么说,向美方要求协助他偷渡,遭拒也是理所当然。计划失败的松荫自首了自己企图偷渡的行为。结果是被遣送回长州,投入大牢。此外,因为这件事,佐久间象山也受到连坐,被令禁闭。


松蔭が入れられた獄は「野山獄」といいます。この獄において松蔭は書物などの差し入れを受けて学問を行っています。さらに、周りの囚人に対し「孟子」の講義までしたといいますから驚きです。野山獄は武士用の獄で、締め付けもあまり厳しくなかったとされますが、それにしても独特の感覚の持ち主ではないでしょうか。


松荫被关入的监狱称为“野山狱”。他拿起送到狱中的书本,在这里研习学问,还对同狱的犯人讲解《孟子》,让人称奇。野山狱是关武士的地方,管束也相对宽松,即使这样,此举仍可窥见松荫是个不同凡响的人。


やがて松蔭は獄を出て実家に戻りました。ただし完全に許されたわけではなく、実家で謹慎生活を送ることになったのです。ところが、実家での松蔭は謹慎中にもかかわらず、弟子などに対して講義を始めます。この講義は評判を呼び、受講生も増えたため、ついに松蔭は自らの塾を開いてしまいました。塾の名は、玉木叔父の塾の名を受け継ぎ「松下村塾」としました。


没过多时,松荫出狱回到家里,不过还并没有完全被赦免,在家里过起了“谨慎”(禁止外出,对武士的处罚)的禁锢生活。尽管还在“谨慎”期间,呆在家里的松荫又开始对弟子授课。他的课大受好评,学生越来越多,于是松荫便开办起自己的私塾,塾名即“松下村塾”,继承了玉木叔父私塾的名字。




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