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大野智《FREESTYLE》作品集专访(2)(中日对照)
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作者:来源 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-8-18 14:19:21 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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——絵を描きはじめたのは、小学校時代の友達の影響だったと。 ——开始画画的契机,是受到小学时代的朋友所影响。 大野:そうそう。小学6年生まで、絵しかやってなかったの。最初はやっぱ普通に『ドラゴンボール』だった(笑)。友達ん家行った時に、友達が悟空の絵を描いてて。それ見た時に、「上手いな。俺もやりたい」と思ったの。そこから描きはじめて。でも、友達の方が断然上手かったの。悔しくて……でも「絶対あそこまでいく!」って決めたんだよね。いかないと気が済まない。だから、友達より上手くなりたい一心で、ずっと描いてた。 大野:对对。直到小学6年级为止,我除了画画其他事都没做。最初果然只是普通地画了“龙珠”(笑)。去朋友家时,朋友画了悟空的画。看到他的画时,就觉得“画得好棒啊。我也想试试”。从那时起,我开始了画画。但是,当时明显绝对是朋友画得更好。我非常不甘心……但我决心“绝对要画到那种程度为止!”,做不到的话就不舒心。所以,我一心想要画得比朋友更好,于是就一直画。 ↑↑大野回小学母校拍的照片。据本人说,上图右半张显示的位置就是他小学时的座位位置。 那时的大野少年上课几乎不举手,是很“黑暗”的小家伙。 要はモノマネするのが好きなの。なんでもマネからはじまる。踊りでも、憧れる人がいて、その人みたいにカッコ良く踊りたいって、延々ビデオを見る。壊れるぐらい。徐々に徐々に近づいていって、同じぐらいの位置にいった時に、そこからオリジナルが生まれてくる。「この人はこうやってるけど、俺だったらこうしたい」って……自然とね。 我主要就是喜欢模仿着画。无论什么事都是从模仿开始的,跳舞也是。因为有憧憬的人在,想要像那个人那样很帅气地跳舞,所以一直都在看录像,直到录像近乎坏掉。慢慢地慢慢地靠近对方,直到自己达到与他差不多相同的位置时,再从那里衍生出自己的原创作品。“虽然这个人是这样做的,但是如果是我的话,我想这样做”……自然地就这么想了。 ——それが小学校時代。そこからは? ——这就是小学时代。自那之后呢? 大野:で、中学校に入って、バドミントン部に入って、そっちにハマっちゃったんだよね(笑)。中2で(ジャニーズ)事務所に入って……より描かなくなって。今度はダンスにハマっちゃって。で、京都(舞台『ジャニーズ·ファンタジー KYO TO KYO』(’97、’98))に行って……それで、そう、なんとなく、また描きはじめたの。もう1人、一緒に舞台をやってた友達も絵が好きで。2人で楽屋いる時とかに描いてて……俺も久々だったし、描きたくなったんだよね。それは、この作品集には載ってないんだけど、ペンで適当に描いた絵。 大野:然后,进入中学之后,我加入了羽毛球部,陷入了对羽毛球运动的喜爱呢(笑)。中学2年级的时候,进入(杰尼斯)事务所……这让我更加疏远了绘画。这次是迷上了跳舞。然后去了京都(参与舞台剧《Johnny’s Fantasy KYO TO KYO》,1997、1998年上演)……就这样,嗯,不知不觉中,又开始了画画。还有一个人,一个一起演舞台剧的朋友也喜欢画画。我们2人在休息室的时候就画画……我也是久违地动笔画画,(那时)变得很想画画呢。那时的作品没有刊登到这本作品集里,是我用笔随意地画出来的画。 (『KYO TO KYO』では)牛若丸の役だったから、牛若丸をグロテスクに描いて(笑)。で、その絵を、たまたまメイクさんが見て、「もっと他にもいろんな描き方があるよ」って教えてくれたの。もっとリアルに描ける道具とかやり方をね。パステルの使い方とか……で、いろいろやってみたら、わりとリアルに描けたの。その頃、描いた絵でいうと……ラクダの絵かな。それとか、人の顔が半分ずつで“FATHER”と“MOTHER”になってるやつ。ああいうのを描きはじめた。 (在《KYO TO KYO》里)我饰演的是牛若丸的角色,当时我把牛若丸画得很怪诞呢(笑)。然后,那幅画偶然间被化妆师看到,对方告诉我说“还有更多各种各样的画法哦”,将能够画得更写实的道具和方法告诉了我呢。像是粉蜡笔的使用方法之类的……然后,尝试了各种各样的方法后,我就能画得比较真实了。说起那时候画的画作的话……就是骆驼的画(注:见上图)吧。除了这个,还有就是将人的脸分成两半,一半画成“FATHER”(父亲),一半画成“MOTHER”(母亲)的画。那时我画起了像那样的画。
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