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大河剧人物:荒木村重引热议(中日对照)
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作者:佚名 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-8-26 10:03:02 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语 |
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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第三回放映直後、突然、ある戦国武将の名前がホットワードになった。その人物の名は荒木村重(あらき・むらしげ)。田中哲司氏が演じている。 NHK大河剧《军师官兵卫》第三集播放后不久,某个战国武将的名字的名字突然成为大伙儿的热议词。这个人物的名字就叫荒木村重,饰演者是田中哲司。 「軍師官兵衛」の荒木村重は、姫路から堺に旅をしていた官兵衛一行を野盗が襲った際、道端に寝転んでいた小汚い素浪人だ。道で寝ていた村重がムクッと起き上がるや、野盗10人ばかりをバッタバッタとなぎ倒し、その後もひょこひょこと官兵衛の後についてきて、戦国時代がどうなっているのかをひょうきんに語り、大好物のまんじゅうと銭をもらって大喜びで帰っていったのである。 《军师官兵卫》中的荒木村重是个外表略显粗野、一无所有的浪人。剧中,官兵卫一行从姬路出发向堺行进,途中遭遇强盗的袭击,荒木当时正在路边睡大觉,他忽地站了起来,将强盗十余人打得落花流水,此后还跟随官兵卫一道上路,并且侃侃而谈,对战国时代的风云变幻点评了一番,得到最喜爱的馒头和钱币后,又满心欢喜地回去了。 そのインパクトの強い出現の仕方に、ネット上は荒木村重の話題で持ちきりになり、「荒木村重っていうのも家来になるのかな」「荒木又右衛門と違うのかな?」「荒木とか言う奴、愛きょうがあっていいなあ」などと話題になり、ツイッターの急上昇ワードに入った。2ちゃんねる実況でも「フィクションで面白いと思う」と声があった。 对于这个令人印象深刻的登场方式,众人热议纷纷,在网上成为话题,比如“荒木村重也是(黑田)的家臣吗?”“和荒木右卫门是同一人?”“荒木这家伙挺可爱的嘛”等等,在推特上一时成了热门词。而2ch上的实况也发出“这部分创作得很有趣”的声音。 この荒木村重という人物。実は史実でもよく分かっていない人物なのだ。一応言えることは、「荒木又右衛門(本名・服部保知)とは関係なさそう」「官兵衛の家臣ではなく、友人だった」ということぐらいである 而说到荒木村重这个人,实际上,在史实上也还是个充满谜团的人物。目前姑且能说的,也只是“和荒木又右卫门没有关系”、“不是官兵卫的家臣,算是一位友人”这种程度吧。 一応、通説では、「荒木村重は摂津の戦国武将・池田氏の家臣で、後に信長に抜擢(ばってき)されて摂津国主50万石まで出世した後、突然信長に謀反を起こした」人物とされている。謀反を起こした後、友人の黒田官兵衛が説得に来たのを捕らえ、牢屋にぶち込んでいたが、信長に居城・有岡城(伊丹城)を落とされ、一族を皆殺しにされて逃亡。後に茶人となった…ということになっている。何故謀反を起こしたのか定説もないのだ。「当時敵対していた本願寺家に兵糧を売り渡したのがバレた」「信長の残虐行為に家臣から批判が募っていた」など諸説がある。 按一般的说法,荒木村重其人,“本是摄津的战国武将池田氏的家臣,后得信长重用,成为摄津国50 万石的国主,而之后却突然背叛了信长”。在他兴兵谋反后,友人黑田官兵卫前往劝说,反遭拘捕被投进了牢房。然而最终,信长攻陷了荒木的居城有冈城(伊丹城),其族人被全数剿灭,只有荒木一人捡回性命,此后他成为了茶人......。为什么他会谋反?对此还没无定论,有诸多说法,包括“他向与信长敌对的本能寺出售兵粮被发现”、“信长的残暴在家臣中不得人心”等等。
就连静冈大学名誉教授・战国研究第一人的小和田哲男先生,也在《读卖新闻》上连载的《战国武将之实力》中猜测:“为何荒木举兵谋反?又为何独他一人逃过大劫?诸如此类的谜团众多”,“(谋反)是不是为继续效忠信长还是转投毛利辉元的问题迷茫后,最终选择了毛利的结果呢?” 「軍師官兵衛」の頃(西暦1567年)に、素浪人だったという話は実はないのだが、かといって池田家(信長の家臣・池田恒興の兄の家系で、高利貸し[今で言えばサラ金、街金の類い]を行い『無双の富』といわれた)の家臣としてどの程度の地位だったかも不明。しかし、何分城が落ちて逃げ延びた人なので、史料がなくなっており、よくわからないのである。銭をすぐ欲しがるのは高利貸しの家の家臣だという史料からか。まんじゅうが好きなのは、後に信長からまんじゅうをもらった話があるからであろう。 实际上,在《军师官兵卫》讲述的年代——公元1567年,荒木村重还并不是一个两手空空的浪人,然而他在池田家(信长家臣池田恒兴之兄的同族,经营高利贷,相传有“无双之富”)的家臣中,到底居于一个什么样的地位,这却很难说清楚。不过话说回来,毕竟是个丢掉城池忙命天涯的人,史料也因此散失不齐,自然后世的人难知真相。剧中荒木立即向黑田要钱的一幕,大概是根据他曾为高利贷之家的家臣的史料,而他喜爱馒头的情节,或许是由信长赠馒头的故事而来吧。 官兵衛を幽閉したという話も実は謎が多い。最近発見された官兵衛と村重の手紙には、幽閉後にもかかわらず、「秀吉様に領地の件は宜しく言っておきます。姫路に来た時には遊びに来て下さい」などと、妙にフレンドリーな記述があるのだ。幽閉されて体を不自由にさせられた人物に対する接し方とはちょっといいがたい。幽閉云々は後世のあまり信頼が置けない史料『黒田家譜』に出てくる話で、確かな古文書で分かるのは「村重を説得に行った官兵衛が戻ってこなかったので、官兵衛の家臣達が『御本丸様』に忠誠を誓った」ということだけである。前出の小和田氏の研究書『ミネルヴァ日本評伝選 黒田如水』にも、官兵衛幽閉の話は「ドラマじみていてどこまで史実を伝えているかわからない」といっているほどである。 关于荒木幽禁官兵卫的故事,实际上也是谜团重重。最近发现的官兵卫与村重的书信中就有一段奇妙的记述,“我先向秀吉公禀明领地一事,望兄到姬路时与我一聚”,虽然书信的日期是黑田被解除幽禁之后,但书信中的措辞实在难以让人认为是在对幽禁自己的人。而幽禁的传闻本来也是出自后世的《黑田家谱》,可信度并不高。而根据更准确的古文书所能了解到的,也仅仅只是“前往说服村重的官兵卫一去不回,官兵卫的家臣们宣誓效忠‘御本丸大人(关于‘御本丸’是谁,有不同说法,主要说法认为是官兵卫之父黑田职隆)’”这类记载。小和田先生的研究著作《Minerva 日本评转选 黑天如水》一书在谈到官兵卫被幽禁一事时也表示,“太过戏剧性,到底传达了多少史实则不得而知了”。
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