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夭折的天才剑士:冲田总司(中日对照)

作者:佚名 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-8-26 10:27:58 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

沖田総司は天然理心流の近藤勇(後の新選組局長)が主宰する近藤道場・試衛館で剣技を磨き、10代で免許皆伝に達するほど、剣では天才的な人物だった。しかし、性格的には優しいイメージで語られることが多く、しかも労咳(結核)を患い、わずか20数歳という短い、幸薄い人生だったのではないかと考えられている。だが沖田には、新選組の一番隊を率いて活躍した男の冷徹で、斬殺者としての“顔”があったことも事実だ。果たして、沖田総司の実像とは?


冲田总司在剑术上是一位天才人物,他在近藤勇(后来的新撰组局长)主持的天然理心流道场——试卫官修习剑术,10多岁便取得了“免许皆传”的资格。而另一方面,他性格温和,人们对此也是津津乐道,并且患有结核病,年仅20来岁便早逝,可以说是不为上天眷顾的一生。身为率领新撰组一番队的剑士,冲田具备冷静透彻的洞察力,有着杀手的一面,无疑也是一个事实。那么冲田总司的真实一面是怎样的呢?


沖田総司房良(おきたそうじかねよし)は、陸奥白河藩士、沖田勝次郎(足軽頭)の長男として武蔵国江戸(東京都)で生まれた。幼名は沖田惣次郎、藤原春政(ふじわらのしゅんせい)。容姿は背が高く、浅黒い方でヒラメ顔。少し猫背だったといわれているが、写真が残っていないので何ともいえない。生没年は1842(天保13)~1868年(慶応4年)。


冲田总司良房是陆奥白河藩士冲田胜次郎(足轻头)的长子,生于武藏国江户(东京都)。幼名冲田惣次郎、藤原春政。相传他身材修长、皮肤浅黑,脸部轮廓平坦,背略呈驼形,不过由于没有相片流传,真实如何也不得而知。冲田生卒年是1842年(天保13 年)到1868年(庆应4年)。


沖田は8、9歳のとき江戸市谷にあった、近藤周助(近藤勇の義父)が主宰する天然理心流の近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣の資質に恵まれていたのだろう、剣技は天才的で19歳のとき免許皆伝に達し、1861年(文久元年)には試衛館の塾頭を務めている。優しいイメージのある沖田だが、剣を教えるときは、人が変わったようにとても乱暴で、門弟たちからは近藤よりも恐れられていたという。


冲田在8、9岁时住在江户市谷地区,此时他成为近藤周助(近藤勇的义父)门下的弟子,进入天然理心流的近藤道场——试卫馆里学习。或许生来就是剑术的天才吧。他在剑技上有不凡的天赋,年仅19岁取得了免许皆传的资格,1861年(文久元年)担任试卫馆的塾头。据说,平易近人的冲田每到教授剑术时,会像变一个人似的粗暴起来,弟子们害怕他甚至超过了近藤。


沖田の剣の得意技は「突き」で、彼が使う技は必ず「三段突き」だった。この三段突きの三本仕掛けが、一本にしか聞こえないほどの速さだったというのは有名な話だ。このことからも沖田が“無類の天才剣士”と呼ばれた一端がうかがわれる。


冲田最得意的剑招是“突刺”,他使用这个招式时必然会用“三段突”。三段突也就是三招突刺,相传三下连刺出招极快,让人只感觉是出了一招突刺。从这一点也可以窥见冲田被称为“无双天才剑士”的一部分原因。


浪士組、新選組への参加は自分の意志だったのかどうか、近藤勇、土方歳三など試衛館のメンバーと行動をともにしたに過ぎないのか?はっきりしていることは、剣の師であった近藤勇を慕っていたことで、それが動機の一つだったことは間違いないだろう。新選組時代の沖田は副長助勤から一番隊長と撃剣師範を兼任。一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争うほど多くの人を斬ったといわれる。


冲田加入浪人集团新撰组是出于个人的意志呢?还是仅仅和近藤勇、土方岁三等试卫馆的成员统一行动呢?我们能知道的是,冲田十分仰慕剑术上的老师近藤勇,无疑这会是加入新撰组的一个动机吧。新撰组时代的冲田从副长助勤升到了一番队长兼剑术师范。一番队承担的常常是重要的任务,不少剑客毙命于冲田的剑下,即便在剑豪林立的新撰组中,冲田也是数一数二的。


池田屋事件では討幕派数人を斬り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れたとされているが、その後も活躍していることから、このとき本当に肺結核を発症したのかどうか、確実なことは分からない。ただ、1867年(慶応3年)の終わり頃には病状が悪化、沖田が第一線で活躍することがなくなった。したがって、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、鳥羽・伏見の敗戦後、隊士とともに海路江戸へ戻り、以後は新選組と親交のあった、幕府御典医を務めた松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入ったとされている。


在池田屋事件中,他大展身手,连斩倒幕派数人,然而紧接着却因结核病发,咳血不止而倒在了现场。不过从他此后依然在战斗的事实来看,当时是否是真的结核病发,真实情况也不甚明了。可是,到了1867年末,冲田的病状恶化,逐渐退居二线。因此他没有参加鸟羽伏见战役,败战后,他随着其他队士一起从海路返回江户,从此,在与新撰组有亲密来往的幕府御医松本良顺的照料下,隐匿在千駄谷植木屋过着疗养生活。


1868年(慶応4年)、沖田は一カ月前の近藤勇の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。というのは、周囲の者は近藤の死に関しては固く口止めされていたからだ。そのため、沖田は死ぬ間際まで師の近藤の安否を気遣っていたと伝えられている。


1868年,冲田一个人在这里去世,一个月前近藤被处死,由于周围人缄口不提,他死前并不知晓近藤的死讯,因此相传他在临死时都十分担忧老师近藤的安危。


沖田は一般に新選組の副長、土方歳三とは兄弟のような関係だったかのように思われているが、これは司馬遼太郎、子母澤寛の創作(小説)によるところが大きく、現実は違う。


一般认为冲田和新撰组的副长土方岁三关系十分亲密,不过这其实来源于司马辽太郎、子母泽宽的小说创作,真实情况与之大大不同。




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