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日本传统戏剧:净琉璃(中日对照)

作者:佚名 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-8-31 15:49:13 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

浄瑠璃は、今日では文楽一座に細々と命脈をつないでいるのみだが、江戸時代においては、歌舞伎とならんで、民衆芸能の代表格であった。とりわけ、元禄の頃から十八世紀半ばにかけては、歌舞伎をしのぐ人気を誇り、人形芝居のみならず、その伴奏音楽も庶民の間に浸透した。


在今天,净琉璃仅是在文乐的剧团中延续生命,然而在江户时代,它和歌舞伎并列为民间戏剧的代表。特别是在元禄年间到十八世纪中期的时候,净琉璃风靡一时,甚至超过了歌舞伎,不仅木偶戏,净琉璃的伴奏音乐也渗透到了平民中间。


浄瑠璃が民衆芸として形を整えるのは、慶長の頃だといわれる。浄瑠璃は、もともと語り物の一種で、浄瑠璃御前物語という室町時代の読み物に節をつけていたものが原型であるが、それが操り人形と結びつくことによって、新しい形の芸能として急速に発展するようになったのだった。


庆长年间,净琉璃作为一种民间戏剧初具雏形,它原本是说唱艺术的一种,其原型,是为室町时代的读本《净琉璃御前物语》搭配曲调后的产物。后来和木偶戏结合起来,形成一种全新的表演艺术迅速发展起来。


浄瑠璃は、中世を彩った芸能の潮流の中から、語り物の伝統と人形遣いの伝統が結びついたところから出発したのである。語り物は、日本の中世を通じて、この国の民衆芸能のメインストリームを形作っていた。その代表は平家語りであったが、中世も末期になると、説経、曲舞といった新しいものが民衆の大きな支持を得るようになった。これらの語り物は、素材の相違はもとよりであるが、それに従事する集団の相違によっても、互いの個性を主張していたものと思われる。説経は、蝉丸神社を中心に結びついた放浪の乞食僧、曲舞は、各地に土着する下層の芸能民といった具合であった。


在中世兴起的艺术潮流中,说唱的传统与木偶艺人的传统互相融合,形成了净琉璃。在整个中世期间,为日本民间表演艺术主流定型的正是说唱。代表是平家物语的说唱,而到了中世末期,说经、曲舞等新的形式越来越得到民众的广泛支持。这类说唱不仅在题材上不同,而且随不同的剧团展现相互的个性。说经的表演者主要是一些聚集在蝉丸神社的流浪化缘僧,曲舞主要是各地土生土长的下层艺人。


说经



芸能に従事する様々な集団の中で、東海道を往来する座頭たちが、東海道矢矧の宿を舞台にした恋物語「浄瑠璃御前」に、節付して語ったのが、浄瑠璃のそもそもの始まりである。十五世紀後半のこととされている。


在各种从事表演的群体中,往来于东海道的盲人按摩师们在讲说以东海岛矢矧宿为舞台的恋爱物语《净琉璃御前》时,为其搭配了曲调,这就是净琉璃原本的起源,时间大约是在十五世纪后半期。


一方の人形遣いも、日本の芸能のなかでは、古い歴史を有していた。彼らは傀儡子といわれ、かなりの集団を形成しながら、猿楽能や曲舞を人形操りで演じていたと思われる。


另一方面,木偶表演在日本的表演艺术中拥有古老的历史。这些艺人被称为“傀儡子(木偶师)”,形成了一个庞大的群体,他们采用操纵木偶的方式演出猿乐能和曲舞。


傀儡子



十六世紀の半ばごろ、人形遣いのなかから、夷舁(えびすかき)と呼ばれるものが出現した。その名から連想されるとおり、恵比寿信仰に乗じて、祝福性の強い演目を、人形に演じさせていたものであろう。その舞台のさまは、日野資勝の日記元和五年 (1619)の条に「手くくつの様なる由也」と記されている。


十六世纪中期,木偶艺人中出现一个被称为“夷舁”的群体。由这个名字不妨可以联想到,他们大概一边宣扬惠比寿信仰,一边操纵木偶表演祈福禳灾的剧目。日野资胜在日记“元和五年(1619年)”一节中对其表演的情景记载道:“貌若傀儡子(木偶师)”。


この夷舁が浄瑠璃の節回しを取り入れて、人形劇を演じるようになったのが、今日いう浄瑠璃の始まりなのである。当時、沖縄から伝わった蛇皮線に改良が加えられ、三味線が生まれていたが、これをとりいれたことにも、成功の大きな理由があったと思われる。


这些“夷舁”后来吸收了净琉璃的曲调,开始演出木偶剧,这就是今天所说的净琉璃的开端。当时,人们对冲绳传来的“蛇皮线”进行了一些改良,创造出了日本的三味线,将三味线引入表演也是净琉璃获得成功的重要原因。


成立した頃の浄瑠璃には、河内や左内といった太夫率いる一座が多く現れ、北野や四条河原で小屋をかけていた。中には女太夫もいたようである。次の時代には、薩摩浄雲や杉山丹後掾といった太夫が江戸で成功する。こうして次第に広がりを見せた浄瑠璃は、 17世紀末に、竹本義太夫と近松門左衛門という至高のコンビをえて、全盛期を迎えるに至るのである。


净琉璃初成时,出现了众多由河内和左内等太夫带领的剧团,他们在北野、四条河原搭建剧棚。表演者当中还有女性的太夫。在后来的时代中,萨摩净云和杉山丹后掾两位太夫在江户一举成名。净琉璃逐渐在民间传播开,到了17世纪末,在竹本义太夫和近松左卫门这对黄金组合的配合下,净琉璃迎来了全盛期。






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