打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

日本的“花见”文化(中日对照)

作者:佚名 文章来源:沪江 点击数 更新时间:2015-9-1 9:37:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

「花見だぁ、花見だぁ」と騒ぐのは、どうやら日本人だけらしい。美しい花を観賞するというのは古今東西どこにでもあるが、仮に花見を「屋外の桜の下で複数の人が一緒に飲食する」と定義しただけでも、それはもう日本だけのことになりそうである。


“赏花啦、赏花啦”,会这样嚷嚷的恐怕就只有日本人了。无论古今东西,都有欣赏美丽的花朵的习惯。不过,假如把“赏花”定义为“在室外的樱花树下,多人一起共享美酒佳肴”,那么赏花也就成日本仅有的习俗了。


日本的“花见”文化


この日本特有の花見風俗は、江戸時代にしっかりと根をおろした。江戸時代以前から花見という風習はあったが、太平な世の中になってだんだん広まったといえるだろう。精神的にも経済的にも、そこそこ余裕がないと花見などは楽しめるものではない。元禄の景気のいい時代を通して享保年間(1716~1736)には、一般庶民、老若男女が普通に花見を楽しむようになった。


日本特有的赏花风俗在江户时代完全扎下了根。虽说江户时代以前也有此风俗,但可以说,它是到了太平世道才渗透扩大到民间的。无论是精神上也好,经济上也好,缺少了富足从容,何谈赏花之趣。经过元禄的大好时光,到了享受年间(1716年—1736 年),在普通庶民、男女老少看来,赏花已经成为家常便饭了。


花見が大衆化していくには、まず桜の木がなくては話が始まらない。江戸の花見文化に大きく貢献したのは8代将軍吉宗。江戸や江戸近郊に桜の木がもともと数多くあったわけではなく、それらはみな植樹したものだ。吉宗は隅田川東岸の向島(むこうじま)、この浮世絵に描かれた王子の飛鳥山(あすかやま)、小金井の玉川上水沿いなどに桜の木を植えた将軍として知られている。その場所は、江戸の桜の名所として有名になり浮世絵の題材にもなって、多くの人が押し寄せる花見スポットとなった。大名も下級武士も、町人も長屋の住民も胸をおどらせて春の行楽に出かけたようである。


要说赏花的大众化,就不得不从樱花树谈起。为江户赏花文化做出重大贡献的正是八代将军德川吉宗。原本,江户及江户近郊并没有那么多樱花树,这些都是后来栽种的。将军吉宗在隅田川东岸的向岛、王子飞鸟山、小金井玉川水道沿岸等地广种樱树,因此举而名扬后世。这些地方作为江户的樱花胜地名传千里,还被描绘在浮世绘里,人们纷纷涌来,这里成了赏樱景点。不管是大名、下级武士,还是町人、长屋居民大家都乐滋滋地踏上了春游之旅。


日本的“花见”文化


今もこれらの場所で私たちは花見ができる。吉宗将軍に感謝したいところだ。とはいっても、桜がそのまま残っているわけではない。後年もこの地に次々に桜が植えられたからである。しかも現在の桜はこの時代の桜と品種が違う。当時の桜は「山桜」や「エドヒガン」と呼ばれる野山に自生していたものだ。現在は「染井吉野」が主流になった。この品種は江戸後期に染井村(現在の豊島区)の植木屋が品種改良して売り出したもので歴史はまだ浅い。ただ、成長が早く花も大きく美しいのでどんどん広まって現在に続いている。


直到今天我们还能在这些地方赏花。这还真得感谢吉宗将军。不过话说回来,樱树也并非原封不动地保持原样,后年,又有一些樱树被陆陆续续栽种在这里,并且当时的樱花也与现在的品种不同。当时的樱花被称为“山樱”或“江户彼岸”,是在山野中自生的品种。而现在“染井吉野”则是主流。这个品种历史并不长,它诞生于江户后期,由染井村(现在的丰岛区)的花匠改良品种后出售。由于生长速度快,花朵较大,看起来很漂亮,染井吉野很快就扩展开来,持续至今。




[1] [2]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口