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西博尔德兰学传播(中日对照)

作者:来源 文章来源:沪江日语 点击数 更新时间:2015-9-1 10:15:45 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

日本に西洋医学を伝えた医師の第一人者は、シーボルトと言っていいだろう。彼は文政6年(1823)、長崎出島のオランダ商館付き医師(オランダ人)として日本にやって来た。


为日本传来西方医学的第一人当属西博尔德吧。文政6年(1823年),他以长崎出岛荷兰商馆专任医师的身份来到了日本。


鎖国下にあった日本は、原則この出島だけに外国との交流窓口があり、オランダ人の逗留だけが許されていた。とは言っても、自由に出島と長崎市中の往来は許されなかった。それでもなぜかシーボルトだけは例外で、自由に出島を出入りしている。それはきっと、通訳ができたことに加え、長崎奉行(幕府側)も安全な人物として認めていたからだろう。外国の情報を欲しかったという事情もあったし、ひょっとして病気のお役人などは進んだ西洋の医学に基づいた治療を受けたかったのかもしれない。


当时日本尚处在锁国体制下,原则上只把出岛作为对外交流的窗口,允许荷兰人逗留于此。不过虽这么说,要想到出岛和长崎市内自由地转转却是不被允许的。然而唯独西博尔德却是个例外,他能自由出入出岛。这是为什么呢?一定是因为他擅长口译,被长崎奉行(幕府方)认为是安全人物了吧。其中或许也有希望了解外国讯息的想法在里面,说不定,哪位生病的官员还想接受先进西方医学的治疗呢。


长崎出岛


シーボルトは長崎郊外で「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開き、診療をしながら医学や蘭学を教えた。門下には高野長英がいる。日本人妻との間に生まれた「いね」は産科を父シーボルトから学び、日本の女医さんの第一号となった人として有名である。後に彼女は明治に入ってから、宮内省の医師となったほどの人物である。


西博尔德在长崎郊外开办了“鸣泷塾”,一边行医一边教授医学和兰学。高野长英就出自他的门下。而他与日本妻子养育的女儿“阿稻”也从父亲那里学习了产科知识,后来成为日本第一位女医生而闻名于世,进入明治时代后,她甚至还成为宫内省的医师。


オランダ商館長(カピタン)は、将軍に挨拶することが義務付けられていた。これを「江戸参府」と言う。大名の「参勤交代」のようなものだ。出島での通商のお礼のための将軍への謁見で、舶来の珍しい物を献上した。一行にはオランダ人医師としてシーボルトも加わった。長崎から江戸までの旅は、地元の医師の相談にのりながら見聞を広めた。江戸滞在中は日本橋の長崎屋に宿を定められ、そこには多くの医師や蘭学者が訪れてシーボルトから教えを受けている。


按规定,荷兰商馆馆长官有参谒将军的义务,被称作“江户参府”,类似于大名的“参勤交代”。为了出岛通商获得许可表示谢意,商馆馆长需要谒见将军,献上异国的稀罕珍品。这一行人中也有西博尔德,其身份是荷兰医师。在从长崎到江户的旅途中,他一边与沿途当地的医师交流,一边体味风俗民情。逗留江户期间,西博尔德下榻在日本桥的长崎屋,众多医师和兰学家闻名造访,向他请教。


文政11年(1828)、「シーボルト事件」が起こる。これは彼が日本地図を海外へ持ち出そうとしたことが発覚した事件だ。軍事上の理由から、日本の地図を海外に持ち出すことを幕府は禁じていたからである。彼は地理や民俗学、動植物学など多分野にわたる研究者でもあった。この研究には当然地図は不可欠なものだった。後年『日本植物誌』を著している。


文政11年(1828年),“西博尔德事件”发生了。事件的起因是他打算携带日本地图航行海外,结果被官员发现。因为出于军事上的考虑,幕府是严禁日本地图携带出境的。然而,西博尔德除了是医师,也是涉猎地理、民俗学、动植物学等多领域的学者。为了研究,地图自然少不了。后年,他完成了《日本植物志》。


シーボルトは実はドイツ人の医師だった。つまり、オランダ人になりすまして日本に来たことになる。当時の日本人にその違いなど分からなかっただろうが、オランダ人は当然知っていたはずだ。では、なぜ彼をつれてきたのだろう。それは、西洋でドイツがもっとも医学が進んでいたからにほかならない。西洋医学は蘭学として日本に入ってきたが、その多くはもともとドイツ語の医書をオランダ語に訳した本だったというウラの事情があったからである。


实际上,西博尔德是德国人医师,这也就是说,他是冒充为荷兰人来到日本的。当时的日本人分辨不出欧州诸国的不同,不过荷兰人是很清楚的。既然这样,又为什么要带他来日呢?这正是因为在西方,德国的医学发展水平最高。西方医学被称为“兰学(“兰”指荷兰)”传到日本,然而背后却存在一个事实,即许多医学著作原是从德语翻译成荷兰语的。




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