その後も孝和は微分法やベルヌーイ数を発見したりと大活躍。彼の元には同じく数学ヲt……ゲフンゲフン、同好の士が多く集まり、和算は発展していきます。中には遊歴算家(ゆうれきさんか)といって、諸国を渡り歩いて数学を教えるというような人もいました。このおかげで庶民にもある程度のレベルで数学ができたそうです。
此后,孝和又发现了微分法和伯努利方程,在数学领域开辟了新天地。他的身边也来了众多数学的痴狂爱好者,这些同好们聚集在一起,和算得到了迅速发展。其中也有周游各地教授数学的“游历数学家”,多亏了他们,平民们也掌握了一些基础的数学知识。
孝和が俳聖・松尾芭蕉や茶聖・千利休と並ぶ「算聖」と呼ばれるようになったのは、こうして数学をより広めるきっかけを作ったからでもあるのでしょう。が、明治時代になると「これからは西洋数学でやっていくから、和算は廃止」という政府のイケズなお達しにより、和算を学ぶ人が激減。 そろばんだけが残ったのは、当初西洋数学を教えられる人間が少なすぎて、簡単な計算をするにも困ったからという何とも中途半端な理由だそうで……。差し詰め「俺が数学ができないのはどう考えても明治政府が悪い」とでもいえましょうか。え?数字見ただけでめまいがする?……漢数字なら平気かもしれませんよ^^
孝和被称为“算圣”,与俳圣芭蕉、茶圣千利休并称。恐怕这也是因为他为数学的普及创造了重要契机吧。然而到了明治时代,政府中的坏家伙们却宣布,“以后学习西方数学,和算就此废止”,结果学习和算的人迅速减少。之所以还留下了算盘,也只是由于当时教西方数学的人太少,连简单的计算也感到困难云云这类不彻底的理由。看到这里,没准儿会抱怨,归根结底,“我数学不好还是明治政府干的好事”。哎?仅看数字就头晕?......如果是汉字的数字,说不定就没事了呢。
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