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文学作品赏析:《端午節》(中日对照)

作者:鲁迅 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2015-5-7 9:17:56 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



方玄綽は近頃「大差ない」という言葉を愛用しほとんど口癖のようになった。それは口先ばかりでなく彼の頭の中にしかと根城を据えているのだ。彼は初め「いずれも同じ」という言葉をつかっていたが、後でこれはぴったり来ないと感じたらしく、そこで「大差ない」という言葉に改め、ずっとつかい続けて今日に及んでいる。


方玄绰近来爱说“差不多”这一句话,几乎成了“口头禅”似的;而且不但说,的确也盘据在他脑里了。他最初说的是“都一样”,后来大约觉得欠稳当了,便改为“差不多”,一直使用到现在。


彼はこの平凡な警句を発見してから少からざる新しき感慨を引起したが、同時にまた幾多の新しき慰安を得た。たとえば目上の者が目下の者を抑えつけているのを見ると、以前は癪に障ってたまらなかったが、今はすっかり気を更えて、いずれこの少年が子供を持つと、大概こんな大見栄を切るのだろうと、そう思うと何の不平も起らなくなった。また兵隊が車夫を擲ると以前はむっとしたが、もしこの車夫が兵隊になり、兵隊が車夫になったら大概こんなもんだろうと、そう思うともう何の気掛りもなかった。そういう風に考えた時、時にまた疑いが起る。自分はこの悪社会と奮闘する勇気がないから、ことさら心にもなくこういう逃げ路を作っているのじゃないか。はなはだ「是非の心無き」に近く、好きに改めるに如かざるに遠しというわけで、この意見が結局彼の頭の中に生長して来た。


他自从发见了这一句平凡的警句以后,虽然引起了不少的新感慨,同时却也到许多新慰安。譬如看见老辈威压青年,在先是要愤愤的,但现在却就转念道,将来这少年有了儿孙时,大抵也要摆这架子的罢,便再没有什么不平了。又如看见兵士打车夫,在先也要愤愤的,但现在也就转念道,倘使这车夫当了兵,这兵拉了车,大抵也就这么打,便再也不放在心上了。他这样想着的时候,有时也疑心是因为自己没有和恶社会奋斗的勇气,所以瞒心昧己的故意造出来的一条逃路,很近于“无是非之心”,远不如改正了好。然而这意见总反而在他脑里生长起来。


彼がこの「大差無し」説を最初公表したのは、北京の首善学校の講堂であった。何でも歴史上の事柄に関して説いていたのであったが、「古今の人相遠からず」ということから、各色人種の等しき事、「性相近し」に説き及ぼし、遂に学生と官僚の上に及んで大議論を誘発した。


他将这“差不多说”最初公表的时候是在北京首善学校的讲堂上,其时大概是提起关于历史上的事情来,于是说到“古今人不相远”,说到各色人等的“性相近”,终于牵扯到学生和官僚身上,大发其议论道:


「現在社会で最も広く行われる流行は官僚を罵倒することで、この運動は学生が最も甚しい。だが官僚は天のなせる特別の種族ではない。とりもなおさず平民の変化したもので、現に学生出身の官僚も少からず、老官僚と何の撰ぶところがあろう。『地を易えれば皆然り』思想も言論も挙動も風采も元より大した区別のあるものではなく、すなわち学生団体の新に起した許多)の事業は、すでに弊害を免れ難く、その大半は線香花火のように消滅したではないか。全く大差無しである。ただし中国将来の考慮すべき事はすなわちここにあるので……」


“现在社会上时髦的都通行骂官僚,而学生骂得尤利害。然而官僚并不是天生的特别种族,就是平民变就的。现在学生出身的官僚就不少,和老官僚有什么两样呢?‘易地则皆然’,思想言论举动丰采都没有什么大区别……便是学生团体新办的许多事业,不是也已经难免出弊病,大半烟消火灭了么?差不多的。但中国将来之可虑就在此……”


講堂の中には二十名余りの学生が散在していた。ある者はいかにもそうだ、というような顔付した。この話を好いと思ったのだろう。ある者は憤然とした。青年の神聖を侮辱すると思ったのだろう。他の幾人は微笑を含んで彼を見た。おおかた彼自身の弁解とこれを見たのだろう。方玄綽は官僚を兼ねていたからである。


散坐在讲堂里的二十多个听讲者,有的怅然了,或者是以为这话对;有的勃然了,大约是以为侮辱了神圣的青年;有几个却对他微笑了,大约以为这是他替自己的辩解:因为方玄绰就是兼做官僚的。


しかしこの推定は皆誤りであった。実際これは彼の新不平に過ぎないので、不平を説いてはいるが、彼の分に安ずる一種の空論にしかあり得ない。彼は自分では気がつかないが、怠け者のせいか、それともまた役に立たないせいか、とにかく運動を肯じないで、分に安じ己を守る人らしく見えた。大臣は彼に神経病があるのを罪無きものに思い、彼の地位に動揺を来さないから、彼は一言も言い出さないのだ。教員の月給が半年ほど渡らないが、一方には官俸を取って支持しているから、彼は一言も言い出さないのだ。教員が聯合して月給の支払を要求した時、彼は内心大人げないことだ、騒々しいことだと思ったが、官僚が度を越えて教員を疎外したという話を聴き及んでいささか感ずるところあり、その後一転して自分もちょうど金に困り、そうしてほかの官僚は教員を兼任していないという事実を確めたので初めてなるほどと感づいたのである。


而其实却是都错误。这不过是他的一种新不平;虽说不平,又只是他的一种安分的空论。他自己虽然不知道是因为懒,还是因为无用,总之觉得是一个不肯运动,十分安分守己的人。总常冤他有神经病,只要地位还不至于动摇,他决不开一开口;教员的薪水欠到大半年了,只要别有官俸支持,他也决不开一开口。不但不开口,当教员联合索薪的时候,他还暗地里以为欠斟酌,太嚷嚷;直到听得同寮过分的奚落他们了,这才略有些小感慨,后来一转念,这或者因为自己正缺钱,而别的官并不兼做教员的缘故罢,于是就释然了。


彼は金に差支えたが教員の団体には加入しなかった。しかし衆が罷業すれば講堂には出ない。政府は「授業をすればお金をやる」と声明したが、この言葉は彼にとっては非常に恨めしかった。まるで果実を見せびらかして猿を使うようなものである。それにある大教育家の説得がはなはだ気に食わなかった。


「片手に書物を抱えて片手に銭を要求するのははなはだ高尚でない」と、彼はこの時、初めて彼の夫人に対して不平を洩した。


他虽然也缺钱,但从没有加入教员的团体内,大家议决罢课,可是不去上课了。政府说“上了课才给钱”,他才略恨他们的类乎用果子耍猴子;一个大教育家说道“教员一手挟书包一手要钱不高尚”,他才对于他的太太正式的发牢骚了。


「おい、たった二皿だけか? どういうわけなんだえ、これは」高尚でないという説を聞いたその日の晩、彼はお惣菜を眺めてそう言った。


“喂,怎么只有两盘?”听了“不高尚说”这一日的晚餐时候,他看着菜蔬说。


新教育を受けたことのない奥さんには学名もなければ雅号もなかった。だから別に何と言いようもなかった。旧例に拠れば「夫人」と呼んでいいのだけれど、彼は古臭いのが嫌いで、「おい」という一語を発明した。夫人は彼に対して「おい」という一語すらも所持せず、ただ面と向って話すだけである。それでも習慣法に拠って、その言葉が彼に対して発せられるということが解るのである。


他们是没有受过新教育的,太太并无学名或雅号,所以也就没有什么称呼了,照老例虽然也可以叫“太太”但他又不愿意太守旧,于是就发明了一个“喂”字。太太对他却连“喂”字也没有,只要脸向着他说话,依据习惯法,他就知道这话是对他而发的。


「だけど、先月の分は一割五部しかないのですもの、みんな遣い切ってしまいました。きのうのお米はそれやもう、ようやくのことで借りて来たんですよ」彼女は卓の側に立って彼と顔を合せた。


“可是上月领来的一成半都完了……昨天的米,也还是好容易才赊来的呢。”伊站在桌旁脸对着他说。


「そら見ろ、本を教えて月給取るのが卑しいか。これは皆連絡のあることで、人は飯を食わなければならん、飯は米で作らなければならん、米は銭で買わなければならん。こんな些細のことを知らないのか……」


“你看,还说教书的要薪水是卑鄙哩。这种东西似乎连人要吃饭,饭要米做,米要钱买这一点粗浅事情都不知道……”


「全くそうよ、お金なしではお米が買えません、お米なしでは御飯が焚けません……」


“对啦。没有钱怎么买米,没有米怎么煮……”


彼女の両方の頬ぺたがふかふか動き出した。この怒ったような答案は、ちょうど彼の「大差無し」にほとんどぴったり符号するものである。続いて彼女は頭をくるりと向うへむけて歩き出した。習慣法に拠れば、これは討論中止の宣告を表示したものである。


他两颊都鼓起来了,仿佛气恼这答案正和他的议论“差不多”,近乎随声附和模样;接着便将头转向别一面去了,依据习惯法,这是宣告讨论中止的表示。


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