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日本文化:幕末历史之开国篇(中日对照)

作者:来源  来源:開国   更新:2015-5-21 14:40:00  点击:  切换到繁體中文

 

天保の改革


天保の飢饉と、それに続いた一揆や大塩平八郎の乱は社会不安を生じ、財政逼迫(天保8~12年の幕府の経常赤字は年平均63万4千両)と伴って、幕府内部に「体制に対する危機意識」を生じ、政治改革への機運が高まった。天保12年(1841)、院政を敷いていた大御所(前将軍)・徳川家斉が没すると、首席老中水野忠邦は天保の改革に着手した。水野は質素・倹約を改革の主眼とし、綱紀粛正・冗費節約、倹約、出版統制を推し進めた他、物価引下げのために株仲間解散を命じた。水野は、天保14年(1843)には、御料地改革、印旛沼開拓、上知令(江戸・大阪近郊の大名・旗本領を幕領とする命令)という三大改革事業に着手した。しかし、上知令は、領主交替による年貢の増大・旧領主への貸付の消滅を恐れた農民や、関係大名・旗本の反発を招いた。幕閣や奉行からも反対の声が上がり、同年閏9月、ついに上知令は撤回され、水野は罷免された。天保の改革は2年で挫折したのである。


天保改革


天保的饥荒和与之伴随而来的农民起义及大盐平八郎起义滋生社会的不安,加之财政困难(天保8—12年幕府经常收益赤字年平均63万4千两),幕府内部萌生了“针对幕藩体制的危机意识”,迈向政治改革的机遇高涨起来。天保12年(1841),施行院政的大御所德川家齐去世后,首席老中水野忠邦即着手天保改革。水野把提倡质朴、节俭作为改革重心,推行整肃纲纪、节约亢费、统制出版的政策,此外,为抑制物价又命商业行会解散。水野在天保14年(1843),着手于名为御料地改革(御料地,幕府的直辖领地)、印幡沼开发(印幡沼是位于利根川下流的沼泽地)、上知令(将江户、大阪近郊的大名、旗本领地划归幕府直辖的命令)的三大改革事业。但是,“上知令”却增加了农民、相关大名以及旗本对因领主交替造成年贡增加和旧领主贷款减少的忧虑,引起他们的反对。幕阁和奉行这边也反对声高涨,同年闰9月,水野终于撤销上知令,并被罢免。天保改革仅两年即以失败告终。


水野失脚後の幕閣政争


水野の失脚後、新たに福山藩主阿部正弘(開国時の首席老中)らが入閣し、首席老中には土居利位(どい・としつら)が就任した。水野の改革事業は白紙に戻され、腹心も追放された。ところが、その土居も、翌天保15年(1844)、火事で炎上した江戸城本丸再建事業の上納金が大名の反発を招いて、辞任に追い込まれた。大名の異議による老中失脚が短期間に相次いだことは、幕府の弱体化を表面化させる結果となった。


土居の後任には水野が復帰したものの、阿部らと対立し、力をふるえないまま、弘化2年(1845)には再度辞任となった。水野はさらに「不正」を理由に減封・隠居・蟄居謹慎処分を受け、水野派閣老・目付鳥居耀三も蟄居(ちっきょ)を命ぜられて、水野派は権力から一掃された。代わって、阿部が首席老中に就任し、ここに、約1年半の間に首席老中が3人も入れ替わる政治混乱は収束した。


水野下台后的幕阁政争


水野下台后,另由福山藩主阿部正弘(开国时的首席老中)等人入阁,土居利位就任首席老中。水野的改革被彻底废除,其心腹也被放逐。然而,次年天保15年(1844)被火烧毁的江户城本丸重建的经费捐献招致大名的反对,土居也被迫辞职。因为大名的异议使得老中在短期内频频下台,使得幕府的衰败气象暴露在世人面前。


虽然在土居的后任中,水野曾又东山再起,但因和阿部的对立,孤掌难鸣难成大举,弘化2年(1845)水野再度辞职。更为不幸的是,水野被冠以“不正”之名受到减封、隐居、闭门思过的处分,水野派的阁老、目付鸟居耀三也被责令闭门思过,水野派被清除出权力场。替而代之的是阿部就任首席老中,持续一年半之久的首席老中三人轮替的混乱政局至此收场。




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