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日本文化:幕末历史之开国篇(中日对照)

作者:来源  来源:開国   更新:2015-5-21 14:40:00  点击:  切换到繁體中文

 



天保の大飢饉


ペリーが浦賀に来航し、日本が開国をする直前の天保時代、国内では、天保4年(1833)からの大凶作(天保の大飢饉)で、農村が荒廃し、米価や諸物価が高騰して、人々は困窮し、餓死者も多く出た。このため、農村部の一揆・都市部の打ちこわしが各地で頻発した。


天保大饥馑


佩里叩关浦賀时,日本正处开国前夜的天保时代,自天保四年(1833)开始的举国粮荒,使农村一片荒芜,米粮等各种价格高涨,百姓穷困潦倒,时有饿殍。因此,各地农村的农民起义、都市的暴动频频发生。


大塩平八郎の


天保の大飢饉の影響は、全国の米が廻船される天下の台所大坂にも及び、餓死者がでていた。元大坂東町奉行与力で、陽明学塾「洗心洞」をひらいていた大塩平八郎は、奉行所に対して貧民救済策を具申したが退けられた。それどころか、町奉行跡部大和守所は庶民の米の売買を取締まりながらも、大量の米を幕府御用のために江戸に廻した。大塩は、腐敗した町奉行と豪商を罰して金穀を貧民に分配するため、市中蜂起を行うことを決意した。


大盐平八郎之乱


天保大饥荒的影响连全国米粮输送地的“天下厨房”大阪都被波及,出现了因饥饿而死的人。原大阪东町奉行与力,开设阳明学塾“洗心洞”的大盐平八郎向奉行所呈送贫民救济策却被退回。让人忍无可忍的是,町奉行跡部大和守所尽管严厉禁止民间米谷买卖,却把大量米谷运往江户以供幕府专用。大盐为惩治腐败的町奉行和豪商,分配金谷于贫民大众,决意进行市民暴动


天保8(1837)年1月、大塩は蔵書をすべて売り払うと、それを資金にして、一枚が一朱と引き換えられる施行札(金券)を市中・近郊農村の貧民に配り、ひそかに蜂起の同志を募った。2月、大塩は幕府要人の腐敗を告発する密書を徳川斉昭・筆頭老中大久保忠真(たださね)ら宛に送り、檄文を近郊の村に発した。2月19日、大塩は洗心洞の弟子とともに「救民」とかいた旗をかかげて決起した。同志の密告により挙兵計画が直前に漏れ、予定より半日早い蜂起であった。檄文を読んだ近在の農民たちも加わり、一時は総勢300人近くになったという。彼等は豪商焼き討ち・打ちこわしを行い、大坂城に迫る勢いをみせたが、乱は一日で制圧された。大塩父子は町内に潜伏したが、3月27日、幕吏に囲まれ、用意しておいた爆発物に火をつけて自殺した。大塩ほか事件の首謀者17名の遺骸は市中引き回しの上、磔に処された。


天保8年(1837)1月,大盐卖光了所有藏书,以此筹得资金,向市内和近郊农村的贫民分配一张可换取一朱金的施行札(金券),秘密募集暴动的同伴。2月,大盐给德川齐昭的笔头老中大久保忠真送去了告发幕府要员腐败的密函,又在近郊村落分发檄文。2月19日,大盐和洗心洞的弟子一道揭起书有“救民”字的大旗起义。因同伴的密告起兵计划提前被泄漏出去,比预定早了半日起义。览毕檄文的附近村民也加入其中,据说一时总人数达到近300人。他们火烧捣毁豪商店铺,虽有逼近大阪的势头,却在一天内就被镇压下去。大盐父子虽一时潜藏在町内,3月27日被幕吏包围,只得用事前准备的易燃物点火自焚而死。除大盐以外,此次事件的17名首谋者的遗骸游街后被分尸。


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