播磨国(兵庫県)の小寺家に家老として使えていた黒田官兵衛は、小寺家を代表して、岐阜城の織田信長を訪ね、信長に臣従を誓う。その2年後の1577年(天正5年*1)4月、京への経路となる播磨に、織田方の勢力が育つことに危機感を覚えた、中国地方の覇者・毛利氏は、約5000の兵を海路派兵した。行き先は、官兵衛が守る姫路城から2里(8キロ)南の英賀(あが)浦。
在播磨国(兵库县)小寺家担任家老的黑田官兵卫代表小寺家,前往岐阜城参谒织田信长,宣誓小寺家臣服于信长。织田在前往京都的必经之路播磨发展势力让中国地区的霸者毛利氏感到了危机,两年后的1577年(天正5年)4月,毛利氏从海路派出了大约 5000精兵,其目的地正是位于官兵卫所守卫的姬路城以南8公里的英贺浦。
これに対して、当時は70石取りの代官に過ぎなかった官兵衛が用意できた手勢は、せいぜい1500。そのうちの1000は、守城の兵として、500ずつを自らの姫路城と主君である小寺氏の御着城に分けて置く必要がある。
官兵卫当时不过是一个70石俸禄的代官,面对敌军来势汹汹,他手里能调动的军队人数不过1500人。而这其中的1000人还需要分别抽调出500人,作为守城的军队驻守在自己的姬路城和主公小寺氏的御着城。
空 となった本城へ回り込まれて、戻る場を失うことはできない。もともと、敵勢の3割程度の兵力しかないものを、さらに城の守備に割くことで、前線に投入できるのは、計算上500程度しかなかった。
不能让敌军攻入无人驻守的本城,失去退路。而原本官兵卫的兵力仅相当于敌军的三分之一,再投入一部分到守城中,最后用于前线战斗的,算下来就仅有500人了。
軍略をめぐらした官兵衛は、主君の御着城には500の守備兵を置きながら、自身の姫路城にあてるべき500は前線に投入し約1000の手勢で毛利軍と相対するという手をとった。そして姫路城には近隣の農民をかり集めて籠らせた。
经过一番深思熟虑,官兵卫采取了一个办法,把500守卫兵安置在主公小寺的御着城,而原应驻守在自己的姬路城的500人则投入前线,率领1000人与毛利的军队作战。接着,他又召集起姬路城附近的农民们。
それでも敵は5倍の勢力だ。英賀浦へ上陸した毛利軍は、5倍の兵力に安心しきって姫路城近くまで迫ってきたところに、官兵衛は正面からの突撃を敢行する。
尽管如此,敌军的兵力还是自己的5倍。毛利军从英贺浦登陆,由于己方兵力5倍于对方,他们完全不做什么防备。而就在毛利军逼近姬路城附近时,官兵卫从正面发起了突袭。
『黒田家譜』には「まっ先きにおめいてかかる」 と語るように、先頭に立って兵を切り込ませた官兵衛は、急襲に驚き混乱する毛利兵をさんざんに切り捨てた上、一旦、兵を引く。が、休む間なく、再び、兵を督励し突撃を仕掛けた。
如《黑田家谱》中所称的“从正前方冲入”,官兵卫身先士卒地杀入敌阵,把由于急袭而惊慌失措的毛利兵杀得落花流水后,暂时鸣金收鼓。休息一阵后又再度激励士兵,发起突击。
敵が引いたと思ったところに、二波目の突撃を受けた毛利兵たちは、官兵衛軍とは別の新手の援軍が現れたと勘違いし、恐怖につつまれ、一層、混乱する。そこへ、ホラ貝の音や鐘や太鼓を叩く音が、姫路城から聞こえてくるのに目をやった毛利兵達は愕然とする。
本以为敌军已经撤退毛利方的士兵再度受到第二波突击,他们误以为还会有其它官兵卫以外的援军出现,一时陷入恐惧中,部队更加混乱了。就在此时,从姬路城传来阵阵军螺的声音、钟声、太鼓敲击之声,毛利的士兵们纷纷愕然失色。
次々と幟が立てられようとしているではないか。ホラ貝も鐘も太鼓も、はためく幟も、もちろん、官兵衛があらかじめ入れておいた農民たちの仕業だ。毛利兵たちは、ここに及んで、まださらに後詰めの兵力が温存されていると、恐怖を増幅させ、遂には潰走する。
接下来看到的是一列列军旗竖立起来。其实,军螺、太鼓、钟,以及飘扬的军旗,都是由官兵卫事前召集起来的农民们演得好戏。目睹这一切,毛利的士兵们担心后面还有伏兵埋伏,内心更加恐惧,最终溃退败走。
後代に言う「英賀合戦」。知略だけでなく、白兵戦における強さ。勝機をつかむための軍師・官兵衛が持ち合わせた天性の勘を、まざまざと見せられる合戦だ。合戦の次第について報告を受けた信長は、官兵衛の戦いぶりを賞賛する書状を残している。
这便是此后所说的“英贺合战”。不仅是智谋,在白刃战中也勇不可当。这场合战鲜明地呈现出军师官兵卫与生俱来的把握胜机的直感。接到战况报告的信长写下了一封赞赏官兵卫作战的书状,残留至今。
この戦いの舞台となった英賀は、愛媛の大名河野氏の支族である三木氏が領主だったが、実は真の支配者は、一向宗だった。英賀御堂(あがみどう)という一向宗の寺院が中心となった自由都市を形成していたのだ。
这次战役的舞台英贺的领主是爱嫒大名河野氏的分支三木氏,而实际的支配者则是一向宗。这里形成了一个以一向宗寺院英贺御堂为中心的自由都市。
信長と大坂の本願寺(一向宗の本山)が対立し出したのは、英賀の戦いの7年前の1570年(元亀元年)から。本願寺は包囲されて孤立無援の状況に陥り、頼みは中国の毛利だった。毛利が本願寺を支援する過程のなかで、途中にある一向宗の拠点を毛利が確保するために仕掛けたのが英賀の合戦というのが真相の一つであろう。
从1570年开始,也就是英贺合战的7年前,信长与大阪的本愿寺(一向宗的本山)持续战争。本愿寺被信长的军队包围,陷入孤立无援的苦境,能依靠的便是中国地区的毛利。在支援本愿寺的过程中,毛利为了确保前往大阪途中的一向宗据点,于是便发起了英贺合战,这或许是真相之一。