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日本末代将军德川庆喜安息之地(中日对照)

作者:来源  来源:读卖新闻   更新:2015-5-25 21:34:03  点击:  切换到繁體中文

 

多くの著名人が眠る谷中墓地は、人々の散歩コースになっている。人だけでなく、まるまる太ったネコや、カラスも大勢いて、墓地なのに、にぎやかだ。


不少名人安眠的谷中墓地,正成为人们散步的路线。不单是人,蜷成一团的肥猫或是乌鸦也为数众多,明明是墓地,却甚为熙攘。


扫墓的人们



俗に言う谷中墓地には、都立谷中霊園のほかに、寛永寺の墓地や天王寺の墓地も含まれており、最後の将軍、徳川慶喜の墓は寛永寺の墓地にあった。徳川15代将軍の墓は、土まんじゅうの形をした神式の墓だ。歴代将軍の墓は仏式なのに、なぜ慶喜の墓は神式なのだろう。


通常所说的谷中墓地中除了都立谷中灵园以外,也包括宽永寺墓地和天王寺墓地,“最后的将军”——德川庆喜的墓地就在宽永寺。德川第15代将军之墓是一座土馒头形状的神道式坟冢。而历代将军的墓冢都是佛教式,为何庆喜的墓是神道式的呢?



疑問に答えてくれたのは、ボランティアガイドの川上珍彦さん(83)だ。「慶喜は、出身の水戸の徳川家の伝統を引く尊皇思想の持ち主で、朝廷に刃向かうつもりはありませんでした。そのことを示すために、仏式ではなく神式にするよう遺言したんですよ」


为我解疑的是志愿者向导川上珍彦先生(83岁)。“庆喜出身水户家,继承了水户德川家的传统,是个有着尊皇思想的人,不愿对朝廷兵戎相见。为了表明其意,他留下遗言要求墓冢以神道式而非以佛教式。”


そういえば慶喜は鳥羽 伏見の戦いで、家臣たちを置いてさっさと大阪から江戸に戻ってしまった。相手が朝廷の錦の御旗を掲げていたので、朝敵とされるのが嫌だったのだろうか。


那么说来,庆喜在鸟羽伏见之战中曾抛下家臣们匆忙从大阪赶归江户。也许这是因为对手揭起了朝廷的锦旗,他不愿背负朝敌之名吧。


中央の二つの墓のうち、左側が徳川慶喜のもので、墓碑は「従一位勲一等徳川慶喜之墓」となっている。右側は正室の美賀子の墓。二つの墓の前には「徳川慶喜公事蹟顕彰碑」と彫られた大きな碑が立っている。慶喜と正室の墓の後ろには側室2人の墓。あとは老女部屋頭と子供、孫たちの墓もある。


中央的两座墓之中,左边是德川庆喜之墓,墓碑上记有“从一位勋一等德川庆喜之墓”。右边是他的正室美贺子之墓。两座墓之前伫立着刻有“德川庆喜公事绩彰显碑”的巨大石碑。庆喜与正室的墓后面是两位侧室的墓。再后还有老女部屋头(老女:侍女长;部屋头:主管大奥女官的房间)和庆喜儿孙们的墓。


(注:根据大奥的职制,女官分为“お目見え以上(可谒见将军)”、“お目見え以下(不可谒见将军)”、“部屋方(由“お目見え以上”的女官私人雇佣的女侍,不是严格意义上的大奥女官)”三个等级。


德川庆喜晚年



慶喜は10男12女もの子供をもうけた。写真を撮り、自転車を乗り回すなど多くの趣味を楽しみ、1913年(大正2年)、歴代将軍の中では最も長命な76歳まで生きた。死後も奥さんや子供たちに囲まれて、幸せかもしれない。


庆喜膝下育有10男12女。他享受着摄影、自行车兜风等广泛的乐趣,以73岁高龄活到1913年(大正2年),是历代将军中的最高寿。死后也被夫人与孩子们团团簇拥着,没准儿他是个幸福的人。


(责任编辑:何佩琦)




 

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