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日本历史人物之楠木正成(中日对照)

8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取る。正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたのだ。6月、正成は隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。


8万幕府军落败于仅仅千人的正成军,这一实情立即传遍了诸国。“幕府军不足为惧”,一直以来畏惧幕府军力而追随幕府的各地豪族纷纷开始暴动,最终连幕府内部也出现了足利尊氏、新田义贞等倒戈者。尊氏打败了京都的幕府军,义贞则攻入镰仓讨取了北条高时。正是正成用平民力量坚守千早城,才最终使得延续140年的镰仓幕府被推翻。6月,正成前往隐岐恭迎后醍醐天皇,担任了凯旋还京的前驱。


※赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は敵味方双方の戦死者を区別なく弔う為に、「寄手(よせて、攻撃側)」「身方(味方)」の供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに「寄手」としたり、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいなど、残忍非情な戦国武将が多い中で、人格者としての正成の存在は際立っている。


※赤坂城、千早城合战之后,正成为了不分敌友地凭吊战死者,建立起“寄手(进攻一方)”、“身方(我方)”的供养塔(五轮塔),招集高僧做法事。不使用“敌”字而用“寄手”、寄手坟冢比身方坟冢还大了一圈等,在残酷无情的大多数战国武将中,正成这个德义高尚的存在尤其耀眼。


1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタート。正成は土豪出身でありながら、河内和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たす。後醍醐天皇は天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。


朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、1335年11月、尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。


1334年(40岁)后醍醐天皇复兴朝廷政治,施行建武新政。正成身虽为豪族,却被任命为河内、和泉守护,达成了一个破天荒的晋升。后醍醐天皇意图建立在天皇主导下的和平之世,然而为了施行理想的政治推行强权不可少,又加紧独裁。首先他认为必须得削弱在镰仓时代过于强盛的武家势力,赏赐的比重偏向公家而给武家的则微不足道。另方面,迅速坚固财政基础也是必要的,便让平民负担比镰仓幕府更为繁重的年贡与劳役。虽说是为了恢复朝廷的威权,可这种急躁的改革引起诸国武士的反抗,1335年11月,尊氏以恢复武家政治为倡在镰仓起兵。楠木正成、新田义贞、北畠显家等天皇方的武将迎击攻上京都的尊氏军队。尊氏军一败涂地,逃奔九州。




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