京都鴨川沿いの料理屋と旅館の美しい風景。これは恐らく三条大橋の上から撮影したもの。背景に見えるのは恐らく二条橋。川の堤には川の流れに近づき易いように多くの階段があるのを見ても、鴨川は京都の人々にとって極めて重要なものだったことがわかる。飲料水の源泉として不可欠だっただけでなく、暑い夏の間はこの川のお蔭で人々が大いに必要とした一息入れる場となった。
照片上是京都鸭川沿岸料理店和旅舍的美丽风景,很可能是站在三条大桥上拍摄的。最靠后的桥梁可能是二条桥。河堤边有许多台阶,为的是方便汲取河水,鸭川对京都人来说有多重要,看到这点便能明白了。不仅作为饮用水的源泉不可缺少,到了炎热的夏季,这条河还成为了人们必不可少的乘凉场所。
鸭川 摄于1890年
川の堤に沿って立っている木製の柱は、川の上に納涼床を設けるためのもの。夏の間は、客をもてなすのに蒸し暑い屋内ではなく、この床を使った。今でも5月1日から9月30日までの間使われている。この床は橋の下にも設けられたが、この習慣はとうの昔になくなった。
在河堤沿岸,可以看到有许多木头柱子,它们用于在鸭川上搭设纳凉床。炎夏期间,店家会在纳凉床上接待顾客,而不是在闷热难耐的室内。直到现在,每年5月1日到9月30日期间,人们都会使用纳凉床。以前的纳凉床也会被架设在桥下,而这个习惯早在很久以前就已消失了。
川の中流の水のない中州に人が立っているが、ここは夏に京友禅を日光で乾かすのに使われた。この風習は1970年代後半になって水質汚染が懸念されて廃止された。
在河水中游的河滩上,有一个人站在那里。过去到了夏天,人们会把京友禅晒在这里,利用阳光晾干湿气。这个习俗到了1970年后半期就被废止了,原因是对水质污染的担忧。
鴨川は普段は静かで浅いが、梅雨の間はたちまち恐るべき水量の川に変わる。洪水が頻繁に起ったので、白河法皇(1053~1129)は、当時この世の中で自分の意に従わないものは、叡山の僧兵、双六の賽と鴨川の水の三つしかないと言った。
在平常时候,鸭川很安静,水位也较浅。然而到了梅雨期,这里的水量开始惊人地加大。洪水频繁泛滥,为此白河法皇(1053年-1129年)曾说,当今之世,唯有三样东西不如我意,比叡山的僧兵、双六的骰子以及鸭川的河水。
鴨川の流れが気紛れで、物を運ぶのに利用するのが難しかったため、京都の有力商人の角倉了以(1554~1614)は、運河を作ることにして1611年に10.5キロの運河が開通。その後この運河は、運送用に使われた船底の浅い高瀬舟にちなんで高瀬川と呼ばれた。運河の水は鴨川から来ているが、この写真の舟は恐らく運河の入り口近くのものだろう。
鸭川的河水反复无常,因此难以用于运输货物。于是,京都的豪商角仓了以(1554年-1614 年)决定开凿运河,并于1611年完成运河的开通,长达10.5公里。此后这条运河被称作“高濑川”,因为运输时所用的是一种船底吃水较浅的高濑舟。运河的水引自鸭川,这张照片上的小船恐怕就是位于运河的入口附近吧。
高瀬川は二条に始まって、伏見・中書島の淀川まで流れている。1900年代初めまで、米、炭、塩、特に材木の運送のための交易路として重要だった。丸太は保津川を流れ下って丸太町(文字通り丸太の町)を経て運河の出発点に運ばれ、ここで製材して大阪に運ばれた。
高濑川始于二条,一直流到伏见、中书岛的淀川。到1900年初期以前,它都是运输米盐炭,特别是木材的交通要路,十分重要。圆木在保津川顺流而下,流经丸太町(也即园木之镇,丸太即园木),到达运河的起点,又从这里完成锯切制材,接着被运往大阪。
この運河は、島流しの刑を受けた罪人を運ぶのにも使われた。森鴎外の大正5年の小説「高瀬舟」の舞台は、この高瀬川である。これは、奉行所の役人が自分の兄弟を殺した罪人を護送する高瀬舟の中で、その話を聞いて同情するようになるまでを描いた、感動的な小説。
这条运河也用于运送被处流放之刑的罪犯。森鸥外于大正5年写成小说《高濑舟》,其中的舞台就是高濑川。故事讲述奉行所的小吏押送杀害自己兄弟的囚人,在高濑舟里,他听到了囚人的一番自述后难抑怜悯之情,《高濑舟》是一部感人至深的小说。
艺伎和纳凉床
川沿いに並木のあるこの運河は、今でも残っていて自動車の出現で消え去った京都の一面を思い起こしながら散策するのに好い場所。
直到现在,这条沿河栽种树木的运河依旧是个散步休闲的好去处,它让人回忆起,在汽车烟尘中逝去的昔日京都的面容。