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举藩的大事业
喜爱上学问的光圀尤其编撰了一大批历史题材的书籍。其中最富盛名的便是《大日本史》了。明历3年(1657)他在江户开设编书分局,后来将其命名为“彰考馆”(“彰往考来”之意,在江户与水户都有设置,称为江馆、水馆),展开了编书事业。在光圀在世时《大日本史》并未完成,作为水户藩的一项大事业,在他死后仍然在继续进行书籍的编撰工作。虽然该书的大概内容在江户中期时已经完成了,但修正工作还在继续,最终完成已是在1906年(明治39)了。
この250年にもおよぶ大事業は、尊王思想や国家思想を尊ぶ水戸学と呼ばれる学風を形成しました。この水戸学は幕末の尊王攘夷思想にも大きな影響を与えました。桜田門外の変や天狗党の乱など、維新の動乱期には水戸藩と藩出身者が多く登場します。光圀の思想事業が遠く時を超えて人々を動かしたとすれば、歴史のつながりというものに思いを馳せずにはいられません。ちなみに、彰考館には数多くの学者が集められ、『大日本史』の編纂が行われていましたが、彼らの中に安積澹泊、佐々十竹という学者がいました。二人とも彰考館の総裁までつとめた優秀な学者であったのですが、澹泊はまたの名を覚兵衛、十竹はまたの名を介三郎といいます。そう、覚さんと介さんです。この二人、字こそ違っていますが、あの助さん格さんのモデルと言われています。
这个跨越250年的大事业使奉行尊王思想与国家观念、被称为水户学的学风得以形成。水户学对幕末的尊王攘夷思想有巨大影响。包括樱田门外之变或天狗党之乱等事件,水户藩出身的藩士在维新的动乱时期多有登场。光圀的思想与事业跨越了漫长的时间距离,让人们行动起来,这么说来让人禁不住要感怀历史的羁绊了。顺便要说的是,彰考馆中积聚了大批学者来编撰《大日本史》,而他们中间有两位叫安积澹泊和佐佐十竹的学者, 澹泊又名觉兵卫,十竹又名介三郎。对哦,就是阿觉与阿介了,这两人据说就是小助与小格的原型,虽然在字上不同。
名君徳川光圀
光圀は歴史事業のみならず、藩政の充実にも尽力しました。経済政策から福祉、軍事まで光圀が着手した分野は数多くあります。中には効果をあげられなかった政策もありましたが、光圀の施策がスタート直後の水戸藩の体制を整えたのは間違いないことで、民衆の支持も勝ち取りました。やがて光圀は兄の子綱条(つなえだ)に家督を譲り、藩主の座を降ります。
名君德川光圀
光圀不仅致力于历史事业,为了充实藩政他也竭尽了全力。从经济政策到福利、军事,光圀着手的范围十分广泛。其中虽然也一些不奏效的政策,但水户藩体制的整治正是在光圀的政策开始以后,因此他赢得了民心民意。不久光圀将家督之位让与哥哥的儿子纲条,离开了藩主的位子。
政治や学問以外のことでも、光圀に関するエピソードがいくつか残っています。「貧乏で困っている百姓に薬や食べ物を与えた」など、光圀の人格者ぶりを伝えたものも数多く、真偽のほどは別として、こうしたエピソードが名君としての光圀像を形づくる助けとなりました。「水戸黄門」のお話が「水戸黄門漫遊記」として成立したのは明治の終りごろ、大阪の講談界においてと言われています。光圀が実際に日本全国を歩き回ったことはないようですが、『大日本史』の資料収集のために関東近辺を旅行したことはあったようです。その業績やエピソードが後世においてミックスされ、現在まで愛される時代劇の大ヒーロー「水戸黄門」誕生へとつながったのです。
光圀在政治和学问以外也有不少轶闻。如“给予因贫困苦恼的百姓药物与食物”之类,传颂光圀杰出人格的事迹也有许多,真伪暂且不论,这些轶闻都构造出了作为名君的光圀形象。“水户黄门”的故事在明治末期的大阪讲谈界中被编成了《水户黄门漫游记》。其实光圀并没有周游日本全国,为了搜集《大日本史》的资料只在关东地区附近游览过。他的业绩与轶闻在后世被改造混合,由此才诞生了直到现在都备受人们喜好的时代剧大英雄“水户黄门”。
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