村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文(下)
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
理由は簡単です。「効率」です。
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。
ロバート?オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
「大統領、私の両手は血にまみれています」
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター?デ?カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)
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村上春树在加泰罗尼亚国际奖颁奖礼上演讲
全文(下)
可不知为什么,日本人历来就属于不懂生气的民族。虽能长时间忍气吞声,却大不大擅长将感情爆发出来。这方面,可能与巴塞罗那市民有些许不同。然而这回,想必连日本国民也“真的很生气”。(后果很严重?^_^)
但与此同时,对那种扭曲的存在一直采取容忍,或者默许态度的我们,也必须展开自查吧。因为,此次的事态,与我们的伦理规范有很深关系。
如各位所知,我们日本人是史上唯一曾遭受原子弹轰炸的国民。1945年8月,美军轰炸机在广岛和长崎这两座城市投下了原子弹,总计超过20万人丧生。死者几乎全是没有武装的平民。但在此,我并不打算追究其是非功过。
我现在想说的是,轰炸后不仅产生了20万死难者,也有许多幸存者自那以后,日日夜夜在放射能辐射症状的折磨中,渐渐亡故。通过这样的牺牲,我们学到的是:原子弹拥有何等巨大的破坏力,放射能将给这世界,给人们的身心留下何等深重的伤痕。
战后日本的发展包含两大基本原则:一是经济复兴,一是放弃战争行为。不论发生什么事都不再使用武力,经济上富起来,并希求和平,这两点成为了日本这个国家的新指针。
广岛的原子弹死难者纪念碑上刻着这样一句话:
“敬请安息吧。因为我们不会重蹈覆辙。”
了不起的一句话。其中包含着这样一层意思——我们既是受害者,也是加害者。在“核”这一压倒性力量面前,我们任谁都既是受害者,也是加害者。从被迫置身于核威胁之下这一点来看,我们全是受害者;从发现“核”,而又未能阻止“核”的利用这一点来看,我们又全是加害者。
而在原子弹投下之后时隔66年的今天,福岛第一核电站这三个月来一直在向外辐射放射能,不断污染周边的土壤、海洋、空气。这将在何时以怎样的方式被终止,尚无人知晓。这是我们日本人有史以来经历的第二次大型核灾害,但此次并非被谁投下了原子弹。我们日本人自己种下苦果,用自己的手犯下过错,糟蹋着我们自己的国土,破坏着我们自己的生活。
为什么变成那样?战后很长一段时间里我们对“核”所怀有的抵触感,究竟消失到哪儿去了呢?我们一直以来追求的和平富裕的社会,又被什么给破坏、扭曲了呢?
理由很简单,就是“效率”。
电力公司主张:原子炉是高效率的发电系统。言下之意,这是增加利润的系统。同时,日本政府——特别是在石油危机以后——对原油供给的安定性存有疑虑,遂将核能发电作为一项国策加以推行。电力公司抛撒了大把钞票用作宣传,又收买媒体,向国民植入了核能发电绝对安全的幻想。
于是当我们回过神来时,日本30%的发电量都已由核电提供。在国民不知不觉间,日本这一地震频发的狭小岛国,核电站数量之多,竟已成为世界第三。
开弓没有回头箭。既成事实已被人为造成。对核电心存疑惧的人们所面对的是一句类似威胁的质问:“那么,你是说即使电力不足也不在乎啰?”国民之间也荡漾着一种情绪:“依赖核电站,欸,也是没办法的吧”。因为,在高温多湿的日本,夏季如果变得不能使用空调,就几乎等同于受到严刑拷问。所以,对核电站表示怀疑的人们,都给贴上了标签——“非现实的梦想家”。
如此一来,我们落入了今天这步田地。本应是高效率的原子炉,现今正陷入惨不忍睹的状态,好似打开了地狱之门。这是现实。
推动核电发展的人们主张“认清现实吧”,但这一现实,实际上根本并非现实,不过是表面的“方便”而已。他们用“现实”这一单词代替“方便”,偷换了概念。
此次核危机,既是日本长年以来引以为豪的“技术神话”之破灭,又是一直容忍这种“偷换”的我们日本人的伦理规范之败北。我们谴责电力公司,谴责政府。那是当然的、必要的。但同时,我们也必须反躬自省。我们既是被害者,也是加害者。我们必须以严肃的态度重新检讨这一问题。如果不这样做,恐怕不知又会在哪里重复同样的失败。
“敬请安息吧。因为我们不会重蹈覆辙。”
我们必须再次将此话铭刻于心。
罗伯特·奥本海默博士在第二次世界大战中,成为了研制原子弹的核心人物,但当他了解到原子弹在广岛和长崎造成的惨状时,大受打击,并对杜鲁门总统说:
“总统,我的双手满是鲜血。”
杜鲁门总统从口袋里掏出一块折得很整齐的白手帕,说:“用这个擦干净。”
但是,自不用说,即使寻遍这世界的每一个角落,也找不到能擦去如此多鲜血的干净手帕。
我们日本人理应继续对核说“不!”。这是我的意见。
我们本应立于国家的高度,集中技术能力,集思广益,投入社会资本,寻求研发替代核电的可用能源。纵使世人嘲笑:“没有比核能效率更高的能源了。弃之不用的日本人真是傻瓜。”,经历原子弹灾难给我们所带来的“对核过敏症”,也本应毫不妥协地继续保留。研发无“核”能源,本应是战后日本发展的核心命题。
这些都本应成为我们对广岛和长崎众多死难者的一种集体式负责态度。日本需要这种健全的伦理规范和社会信息。这本应成为我们日本人对世界实实在在有所贡献的一大机会。但是,在经济的高速发展中,我们流于“效率”这一简单的标准,而迷失了重要的方向。
我一开始也说过,不论事态如何悲惨如何严重,我们始终都能走出自然灾害的阴影,迈向未来。而通过战胜灾害,人们的精神有时也会变得更加坚强。也许我们总能想法设法达到目的。
毁坏的道路和房屋的重建,那是专业人士的工作。但试着重建受到损害的伦理规范时,这就是我们所有人的工作。我们哀悼死者,同情灾害中痛苦万分的人们,不想让他们所受的痛、所负的伤变得毫无意义,我们以这种再自然不过的心情开始此项工作。这应是单纯质朴、默默无闻,且需要耐性的手艺活。雨过天晴的春天一早,同村人结伴来到田里,耕地的耕地,播种的播种,必须集合大家的力量共同推动这一工作。虽然表面上各人干着各人的事,但心连在一起。
这规模宏大的集体劳动中,我们这些语言专家——职业作家们想必也占有一席之地。我们必须把全新的伦理规范和全新的语言结合在一起,必须使生机勃勃的全新故事由此萌芽、生长。这应是我们共同的故事,就像播种时的劳动号子一样,应是鼓舞人心、富有韵律的故事。我们以前正是如此,重建了在战争中化作焦土的日本。恐怕我们必须重新回到那一原点。
正如前面所言,我们生活在“无常”这一变幻莫测的世界之中。世间的生命不过是在变化中最后无一例外地走向灭亡。在自然的神力面前,人渺小无力。这种玄虚的认识,成为了日本文化的基本理念之一。但与此同时,我们也应该具备一种积极进取的心理特性,对已逝之物表示敬意,即使身处这危机四伏的脆弱世界之中,也要以淡定的决心继续精彩地活下去。
我的作品得到加泰罗尼亚人们的承认,获此殊荣,这使我感到很自豪。我们居住的地方相距甚远,彼此语言不通,文化背景也存在差异。但我们背负着同样的问题,拥有同样的悲伤喜悦,也可以说都是世界市民。因此,日本作家的不少作品才能被译成加泰罗尼亚语,才能被人们拿在手中翻阅。能像这样与大家分享同一个故事,我感到很高兴。做梦是小说家的工作,但对我们而言,更重要的工作是与人们分享梦。没有那种分享的感觉,便成不了小说家。
我知道,加泰罗尼亚人在过去的历史中,走过了许多苦难历程,虽然也曾一时遭遇极大不幸,但仍坚强地活下来,守护了自己丰富多彩的文化。我们之间,定当有许多可以分享的话题。
近些年来,我们经历了各种严重的自然灾害和惨绝人寰的恐怖事件。我想,在加泰罗尼亚,在日本,诸位和我们,如果都能成为“非现实的梦想家”,如果这种超越国界和文化、开放式的“精神家园”得以成形,那该多么美妙,这才正是我们重获新生的起点。我们不能害怕做梦,也不能让名为“效率”和“方便”的灾厄之犬追上我们前进的步伐。我们必须是迈着坚定步伐勇往直前的“非现实的梦想家”。人总归会死去,会消失,但“humanity”——人性,会留存于世,这是可以世世代代传承下去的。我们首先必须相信这种力量。
最后,我希望将本次的奖金作为捐款,捐赠给遭受地震灾害和核电站事故灾害的人们。对给予这一机会的加泰罗尼亚的人们和加泰罗尼亚自治州政府的各位,我深表感谢。同时,我也想对前几天在洛卡尔地震中遇难的人们,致以深切哀悼。(共同社 巴塞罗那)
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