4つの愛
「愛」についてよく考える。
多くの人が「愛」と呼んでいるもののほとんどは、実は「愛」ではない何か別 なモノではないか、という考えだ。
身の周りの人を見て思うこともあるし、自らを省みて思うときもある。
例えば、親が子供に「勉強しなさい」と叱るとき。親は子供に愛を与えている つもりだが、本当にそうなのだろうか。
話は幸せの定義までさかのぼる必要があるだろう。親が子供の幸せを願うのは当然だ。しかし、幸せの形は一つではない。ある人にとって幸せなことでも、別な人にとっては不幸なことかもしれない。
親が子の幸せを願うとき、それは「子供が考える幸せ」ではなく「親が考える幸せ」に子供を当てはめているだけではないか。そう思うのだ。
「子供のうちは判断力が未熟だ。大人にならないとわからない。だから大人の私が教えてあげているのだ」。親はそう自分を正当化するだろう。
確かにそれは一理ある。しかし、だとしても過去と相手を変えることはできない。例え、自分の子供であったとしても無理やり力ずくで相手の価値観を変えることはできないのだ。
もし親心でどうしても気づいてほしいと思うことがあったなら、子供に対して気づきのきっかけを与えることならばできるだろう。
自分の意見を押しつけずにただ、信条として語る。自分の体験談として語る。それを受け取るか否かは子供が決めることだ。
つまり、「相手のために」で押しつけるのではなく。「相手の立場に立つ」のだ。
「相手のためにやってあげている」。こう考える時、えてしてそれは押しつけになる。相手のためかどうかは、こちらが決めるのではない。相手が決めるのだ。
だから、できるだけ「相手の立場に立って」「推測」をする。「忖度」をする。それしかない。僕たちは占い師でも超能力者でもないから、必ずしもそれが的中するとは限らないだろう。いや、当たらないことのほうが多いかもしれない。それでもその努力を続けるのだ。そして、精度をわずかずつでもあげていく。相手の立場に立てる人間に一歩ずつにじり寄っていくしかないだろう。
例えば、男が女に「愛している」と言う。多くの場合、その言葉の裏にはこんね」。
多くの場合、愛情は相手に向けられるふりをして、自分に向けられる。「愛している」のではなく「愛してほしい」。それが「愛している」の本音なのだ。
本来、愛情と言うモノは「見返りを求めない」ものである。「条件付きの愛」は本物の愛ではない。しかし、男と女の愛の多くは見返りを求める。そしてたくさんの条件がついてくる。
「浮気しないでね」「僕のことを一番大切にしてね」「誕生日にはプレゼントをちょうだいね」。これが愛情の正体だ。
そう考えてみると、僕たちが「愛」と呼んでいるものの多くは2つの軸で整理できるのではないか。
1つ目の軸は「見返りを求める」と「求めない」。これは言葉を変えて「条件付き」と「なし」としてもいいだろう。
2つ目の軸は「自分の立場に立つ」と「相手の立場に立つ」。
そうすると4つの象限ができる。僕はそれぞれに以下のようなタイプ名称をつけてみた。
見返りあり × 自分の立場 = 押し売りの愛
見返りあり × 相手の立場 = 取り引きの愛
見返りなし × 自分の立場 = 空まわりの愛
見返りなし × 相手の立場 = 無償の愛
上記2つ。つまり、見返りを求める「押し売りの愛」「取り引きの愛」をやってしまっている人は、それが本モノの愛情ではない、ということに気づく必要があるだろう。
そして、相手の立場に立てていない「押し売りの愛」「空回りの愛」をやってしまっている人は、相手の気持ちを推測する訓練、努力を積む必要があるだろう。
「愛」とは動詞である。
「愛」とは「与える」ことである。
それは、求めることでも、押しつけることでも、取り引きすることでもない。気をつけなければならない。
そして、上記はすべて、上司と部下の関係にも置き換え可能だ。
上司から部下への「押しつけの愛」「取り引きの愛」「空回りの愛」に気をつけよう。
そして、「心」だけで「行動」が伴わない「形容詞の愛」にも気をつけよう。
相手の立場に立つ。見返りを求めない。与える行動。それだけが愛と呼べる。我が身を振り返りながらそんなことを考えた。
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4种方式的爱
关于“爱”我时常在思考着。
我想很多人所说的“爱”其实大多都不是真正的爱而是别的什么东西吧。
有时我会观察周边的人思考这个问题,有时会反攻自身。
比如,父母训斥孩子“快去学习!”时,父母原本是想给予孩子爱的,但事实上呢?真的是这样吗?
说到这儿,就有必要上升到幸福的定义来阐述了。父母希望孩子幸福是毋庸置疑的。可是幸福的形式并非只有一种。也许对于某个人来说是幸福,而对另一个人却会是不幸。
父母希望孩子幸福时,其实那不是孩子想要的幸福,只不过是父母把自己所希望的幸福强加给了孩子而已。难道不是吗?我是这样认为的。
“小孩子不够成熟,缺乏判断力。不长大他是不会懂的。所以我作为大人应该教他怎么做。”父母们总是会说出这样的理由来让自己的行为正当合理化。
确实这种说法有一定的道理。可是即便如此也无法改变过去和对方。即便是自己的孩子也不能强行去改变他们的价值观。
如果出于父母关心孩子的想法,无论如何也要提醒孩子注意的话,只要给孩子一个契机意识到就可以做到。
父母不要把自己的想法作为意见来强加于孩子,而是作为一种信条,作为自己的人生体验来讲述给孩子们听,至于接不接受就由孩子自己去决定。
总之,不要什么都说是“为了对方”而将自己的思想强加于对方,而是要站在对方的立场真正去为对方着想。
“我是为了对方才这样做的”。这样一想就往往变成了强加于人。是不是为了对方不是由说话者决定的,而是由对方来决定的。
所以,尽量站在对方的立场去推测,去揣度。只能这样。因为我们既不是占卜师也没有超能力,无法预知或掌控别人的想法,所以我们未必能猜中对方所想。不,也许猜不中的时候更多吧。然而即使这样也要继续努力。而且,要一点点提高推测揣度的精度。只能这样一步步向前迈进最终才会成为能站在对方立场考虑问题的人。
比如,一个男人对一个女人说“我爱你”。很多时候,这句话的背后隐藏着这样一种感情。就是“因为我爱你,所以你也应该是爱我的”。
爱情大多时候是明明向着自己却伪装成是向着对方。不是“我爱你”,而是“希望你能爱我”。这才是“我爱你”的真实情感。
爱情原本是不求回报的。附带条件的爱不是真正的爱。然而,男女之间的爱大多是有所求的。而且还附带着太多的条件。
“你不可以花心喔!”“要好好对我喔!”“我生日时要送我礼物哈!”等等。这才是爱情的真面目。
这样想来,我就可以把大多数的“爱”通过2个坐标轴来整理划分一下了。
第1个坐标轴表示“求回报”和“不求”。换句话说就是“附带条件”和“不附带”。
第2个坐标轴表示“站在自己的立场”和“站在对方的立场”。
这样通过这两个坐标轴就划分成了4个象限。我把它们分别命名如下。
求回报 × 站在自己的立场 = 强加的爱
求回报 × 站在对方的立场 = 交易的爱
不求回报 × 站在自己的立场 = 空转的爱
不求回报 × 站在对方的立场 = 无偿的爱
上面两个也就是求回报的“强加的爱”和“交易的爱”,属于这两种情况的人必须意识到“这并不是真正的爱”。
而属于不站在对方立场的“强加的爱”和“交易的爱”情况的人需要练努力去推测揣度对方的想法。
“爱”是动词。
“爱“就是给予。
它不是有所求,不是强加更不是交易。这一点我们必须意识到。
而且,上述四种也同样适用于上司和下属的关系。
大家要小心上司给下属的“强加的爱”、“交易的爱”、“空转的爱”!
还有,只有心想而没有付诸行动的“形容词的爱”也需要引起注意。
站在对方的立场。不求回报。给予式的付诸行动。只有这样才能称之为“爱”。我边回顾着过往边思考着这个问题。
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