<日文原文>
古代中国で生まれた、陰陽五行思想。それは、神々を含む森羅万象が、陰陽五行によって説明でき、更に、その意味・働き・未来までもよむことができるという。
この思想が、六世紀、朝鮮半島を経由して日本に上陸した。これこそが「陰陽道」である。
聖徳太子を片腕とした女帝・推古天皇の御代(六〇二年)に、百済僧の観ロクが訪朝し、暦本や天文・地理書、遁甲・方術書を献上した。二十八宿・五星の運行を読み取り、吉凶を占う天文観象術等は、それまで日本には知られていなかった。
聖徳太子の命により中国との交流も頻繁となり、競いあって是に学んだ。
聖徳太子が制定した 「冠位十二階」の十二は、展開を司る天帝の住居である太一星をとりまく十二の衛星に由来し、冠位の徳目である「仁・礼・信・義・智」は相生五行によっている。
陰陽道思想は天皇中心の政治体制の理論に用いられはじめた。
陰陽道の思想の核は、言うまでもなく古代天文術と易、及び五行論にある。
これらは当時の日本には存在しない、極めて高度、かつ先進的な思想体系であった。
当時、 勢力拡大傾向にあった天皇家は、早速これを日本に取り入れた。しかし、その思想の受け入れ方は大陸のそれとはかなり異なっていた。
大陸では陰陽五行理論が用いられる域は、単に占術や呪術に限ることではなく、自然科学分野、哲学、医学など、幅広い分野の主要理論としても用いられていた。
それに対し日本は、それらの学問自体が未だ未発達であったこともあり、又、この理論自体が大陸から日本に上陸した際、仏教僧侶などと共に上陸した為関係もあって、主に占術?呪術方面で活用されていった。
こうして陰陽道は日本的な秘教へと発展し、日本オカルティズムの源流として、大和民族の神秘思想に深く浸透していくことになるのである。
陰陽道の思想は着実に社会の中に取り込まれる一方、王権を支える力とて制度化されてきた。
第四十代天武天皇は律令体制の整備とともに陰陽道を国家体制に組み込み厳重な管理下に置くことにした。
天武天皇は、ご存知の通り、 「壬申の乱」(六七二)によって近江朝から皇位を奪った天皇である。彼は幼い頃から天文学を学ぶなど、陰陽道に詳しかった。まだ皇子の時代から、自らも占星台を持つほど、熱心に研究していたという。
そして、天皇になった彼は、六七六年、官僚機構の一つとして「陰陽寮」が設け、日本初の「占星台」が建造した。
壬申の乱のと き、天武は「式」を駆使し、挙兵の日取り「壬申」から作戦の展開「遁申」、さらに勝利の確信「象」までのすべてを、すべて事前に読んでいたそうだ。
「式」というものは、五行易に用いられる、いわば太古の時代におけるコンピューターで、天界を示す円盤と、地を示す方盤を重ねて回転させ、盤の上に刻まれた神名、星宿、干支などの目盛りを照合しながら、卦象をアクセスする占い道具のことである。
「象」という ものは、陰と陽の組み合わせによって示される。しかし、これは言語ではなく、神秘的な天の声である。この為、ここに秘められた意味を悟るには霊感が必須である。天武はこれにおける解析能力が群を抜いて優れ、又、それを政治判断に的確に活用できていた。
それがよく現れていると思われる例を挙げよう。壬申の乱のとき、天武の軍勢は、軍服の上に赤い布切れを纏っていた。この時の様子を柿本人麻呂が次のように詠んでいる。
「鼓の音は雷の声と聞くまで 吹き響せる小角の音も敵見たる 虎か 吼ゆると 諸人のおびゆるまでに捧げたる幡の靡きは 冬ごもり 春さり来れば野ごとに着きてある火の風の共靡くがごとく」(『万葉集』より)
大体の主旨は、以下の通りである。
雷のような鼓が轟き、突撃のラッパの音は虎の雄叫びのごとく、そしてはためく赤が春の野焼きさながらに大地を覆う。赤が野山を焼く行為こそ、まさに「木生火」、また、赤が大地を覆いつくす行為こそ、まさに「火生土」である。 これこそ、陰陽五行が生み出す圧倒的脅威なのである。
天武は、この戦いによってつまり、陰陽道によって天神性を獲得したのである。
そして、陰陽道によって 一介の「大王」をより神聖にして侵すべからざる存在、つまり「天皇」にまで高め る、古代天皇制を打ち立てた。
その象徴とも言える存在が「陰陽寮」だった。
古代中国に倣ったものではあるが、日本の場合、それの内容はほとんど占術?呪術である。奈良時代以降は中務省の配下となったが、創設当初は天武専用の秘密機関と言った感じのものであった。
この機関は、陰陽寮の代表である「陰陽頭」、占筮?相地を司る「陰陽師」が六人、陰陽道を学ぶ陰陽生に指導を教授することを司る「陰陽博士」が一人、暦を造り暦生に教授することを司る「暦博士」が一人、天文の気色を観察し天文生に教授することを司る「天文博士」が一人、担当役人を率いて時間を管理することを司る「漏剋博士」が二人という構成になっていた。
当時国家は、僧侶と陰陽道の接触を禁じたのみならず、陰陽道に関する学問技能をもった僧侶を勅命に環俗させ、陰陽寮に組み込むことまで行った。
陰陽寮関係者以外の人物がこの道を学ぶこと、技能を用いることを固く禁じることで、国家は陰陽道を隔離した。
これは、天武が、優れた術士の出現によって政権転覆されることを恐れたからという説がある。彼は陰陽道にはそれだけの力が存在すると固く信じていたのである。この天武の秘密主義のお陰で、「陰陽寮」は科学技術の道からは遠ざかり、少々異常な道に発展する。
これ以降陰陽道は官僚的性格が濃くなる一方で、占術的要素も強くなっていく 。
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<中文译文>
阴阳五行思想诞生于中国古代,它不但可以阐释包括鬼神在内的森罗万象,甚至还能推演其内涵,动向以及未来。
在视圣德太子为股肱的女皇推古天皇的统治期间(620年),百济僧人观勒从朝鲜带回并呈献上了大量的天文、地理、奇门遁甲、方术等书籍。在此之后,日本才有了推演二十八宿五星运行,预测吉凶休咎的天文观象等术数。
在圣德太子的倡导之下,与中国的交流日益频繁,阴阳之学蔚然成风。圣德太子制定了官制“冠位十二階”,十二阶即十二级官衔,取自于环绕天帝住所的十二个星宿,根据相生的五行分别赋予德、仁、礼、信、义、智之名。值此,阴阳道思想才在以天皇为中心的政治体制中得以运用。
阴阳道的思想,不外乎古代天文学,易学以及五行论。
这些学说是当时日本前所未见的高度概括的先进思想体系。急于扩大势力的天皇家族迫不及待地将之引为己用,但是它的应用范围却与中国大不相同。
中国的阴阳五行理论不仅仅在占卜和巫术中得以运用,而且它还作为理论基础在自然科学、哲学、易学等领域内大放异彩。
但当时日本的学术本身就不成体系,要用阴阳五行加以阐释几不可能,而且,当时阴阳五行理论是随着佛教僧侣一同登陆日本的,自然就和占卜、巫术相糅合在一起。这样阴阳道就作为日本的密教得以发展,并深深扎根进了大和民族的神秘思想里,成为日本神秘主义的渊源。
阴阳道在切实融入民间社会生活的同时,也被当成是支持王权的重要力量而用制度确立下来。
第四十代天武天皇在完善律令体制时,就把阴阳道设置为政府机构而正式纳入国家体制。
众所周知,天武天皇在壬申之乱时从近江朝那夺取了皇位。他自幼遍习天文诸学,深谙阴阳之道,对其唯研不精痴迷不已,从皇子时代起,就设有个人占星台。
壬申之乱时,天武天皇从择期举兵定日“壬申”,到酣战之际行“遁甲”之术,再到终战当前取胜利之“象”,自始至终,无不行阴阳之道,驱使“式”为其使用,事先运筹料敌于胸。
“式”(1)是五行易学之中的占卜工具之一,相当于太古时代的计算机。它用圆盘代表天,用方盘代表地,上下相叠,左右旋转,藉以根据落定之后盘位上所刻的天神、星宿以及干支之位置,来读取万物之象,阐释变化之理。
“象”是通过阴与阳的组合形态显现出来的,它乃神秘之天启,幽微莫测,不可言状,只有俱备极高灵感的人才能参悟其奥秘。天武天皇天赋异禀,不但能透彻的解析“象”,还能把其恰如其分的运用到政治判断中去。
举一个大家熟悉的例子,壬申之乱时,天武的军队都在军服上缠上红布条。对这,柿本人麻呂曾作诗咏叹:
战鼓雷鸣震天响
号角虎啸敌惊慌
春来野火趁风势
旌旗如血血如湟
-------自《万叶集》
该诗大体意思如下:
如雷鸣一样的鼓声大作,冲锋的号角像虎啸山林般的雄浑有力,厮杀的士兵漫山遍野,军服上布条的红色就像野火一样覆盖着大地。红色染红野山,正象征着“木生火”,红色覆盖大地,正象征着“火生土”。
这里,阴阳五行蕴含的威力被运用到了极致。
天武一战定江山,逞阴阳之力,将天赋神权揽入囊中。但区区“大王”之位,岂在天武眼里?天武更进一步,运用阴阳道探手侵染了更神圣的位置——天皇,由此,确立了日本古代的天皇制度。
阴阳道虽是效法中国阴阳五行论,但其内容基本上只限于占卜和巫术。其创设之初,为天武专用的秘密机构,在奈良时代之后却流落为中书省管辖下的一个部门。
该机构人员配置如下:代表阴阳寮的长官“阴阳头”及掌管占卜和堪舆的“阴阳师”6人;负责阴阳生教学的阴阳博士1人;负责历生教学,历法制作的“历博士”1人;负责天文生教学、天文观察的天文博士1人以及负责管理时刻的漏刻博士1人。
当时国家不但禁止僧侣接触阴阳道,还赦令已掌握阴阳道有关的学问或技能的僧侣还俗,进入阴阳寮为朝廷服务。非但如此,国家还独占阴阳道之学,严令禁止除阴阳寮之外的无关人等学习和使用阴阳道。
盖因天武自身对阴阳道中所蕴藏的力量深信不疑,有种说法称天武担心出现阴阳道高士对他的政权造成威胁,从而对阴阳道进行秘密控制,如此一来,阴阳道就和科学技术相去甚远,渐渐偏离了正常的发展轨道。
自此之后,阴阳道身上的官僚色彩愈发浓厚,但其作为占卜之术却愈发发扬光大。
译注:(1)根据其推演方式判断,似乎是中国古代术数三式之一的大六壬。
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