小野小町は平安前期9世紀頃を代表する女流歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。生没年は809年(大同4年)ごろ~901年(延喜元年)。ただ、詳しい系譜は不明だ。系図集「尊卑分脈」によると、出羽郡司小野良真(小野篁の息子とされる人物。他の史記には全く見当たらない)の娘とされている。しかし、小野篁の孫とするならば、彼の生没年を考え合わせると、上記の年代が合わないのだ。
小野小町是9世纪平安前期代表性的女流歌人,也是六歌仙、三十六歌仙中的艺人。她的生卒年在809年到 901年。不过详细的家族源流则不明。根据宗谱集《尊卑分脉》,她应该是出羽郡司小野良真(小野篁的儿子)的女儿。可是,如果小野小町是小野篁的孙女,对照他的生卒年,又和上述的年代不吻合。
「小町」は本名ではない。通称だ。「町」とはもともと仕切られた区画という意味。したがって、後宮に仕える女性だったことは間違いない。仁明天皇の更衣で、また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていたという説が多いが、それらは小野小町がその時代の人物である在原業平や文屋康秀と和歌の贈答をしているためだ。しかし、それ以上、詳細のことは分からない。
“小町”并不是她的本名,而只是通称。“町”原本指的是把分隔土地的区划。因此小野一定是在后宫仕官的女性。多数说法认为,小野小町是仁明天皇的更衣,文德天皇和清和天皇时也在宫中仕官,这还是由于小町与当时的歌人在原业平、文屋康秀之间有和歌赠答,不过,更详细的情况则依然不详。
小野小町は非常に有名だ。歴史には疎いという人でも名前だけは知っている。そして絶世の美人だったという。だが、確かな証拠は全くない。ただ伝説として有名な話がある。小野小町に深草少将という貴族が惚れて「おれの女になれ」と迫った。そこで、小野小町は「百日百夜私のもとに通って来てください。そうしたらいうことを聞きましょう」と答えたので、深草少将は毎日毎晩、風の日も嵐の日も通ったという。そして、99日目に疲労のあまり死んでしまった。現代風に表現すれば、さしずめ過労死してしまったというところだ。
小野小町十分有名,即便是不熟悉历史的人,至少也听过她的名字。相传她是一位绝世的美人。不过,这个说法也没有确凿的证据。只是留下的一些传说脍炙人口。有位贵族深草少将喜欢上他了小野小町,频频向她示爱。于是小町回答,“那么就请你连续一百天在夜里来拜访我,如果做到了我就答应你”。从此,深草少将无论风雨,每个晚上都会前往小町的住所。然而在第99天,他因过于疲劳而去世了。按现代的说法,应该就是过劳死了。
この伝説は何を物語っているのか。小野小町は、男に従うような素振りを見せて、結局死ぬほどひどい目に遭わせた、とんでもない女だというわけだが、逆に男に99晩も通わせるほど魅力のある女だったということだろう。歌風はその情熱的な恋愛感情が反映され、繊麗・哀婉・柔軟艶麗だ。「古今和歌集」序文において、紀貫之は彼女の作風を、「万葉集」の頃の清純さを保ちながら、なよやかな王朝浪漫性を漂わせているとして絶賛した。
这个传说告诉我们什么呢?你会认为小野小町是个冷酷无情的女子,摆出顺从男子的态度,结果却让他死于非命,然而从反面来看,小町又是一个极富魅力的女人,能让男子连续99晚拜访她。她的歌风艳丽、哀婉,反映了热情奔放的情感。《古今和歌集》序文中,纪贯之高度评价了她的歌风,“保持了《万叶集》时代的淳朴之风,也洋溢着纤柔的王朝浪漫”。
生まれには多数の説がある。秋田県湯沢市小野という説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、茨城県新治郡新治村大字小野とする地元の言い伝えなど、生誕伝説のある地域は全国に点在している。京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ小町は晩年この地で過ごしたとの説もある。滋賀県大津市大谷にある月心寺内には、小野小町百歳像がある。栃木県下都賀郡岩舟町小野寺には小野小町の墓などがある。米の品種「あきたこまち」や、秋田新幹線の列車の愛称「こまち」は彼女の名前に由来するものだ。
关于她的出生地有许多说法。比如秋田县汤泽市小野之说、福井县越前市之说、福岛县小野町之说、茨城县新治郡新治村大字小野的当地传说等等,传说是她出生地的地区散布了全国各地。京都市山科区小野相传是小野一族的荣华之地,因而也有小町在这里度过晚年的说法。位于滋贺县大津市大谷的月心寺内有小野小町百岁像。枥木县下都贺郡岩舟町小野寺内则有小野小町墓。米的品种名称“あきたこまち”、秋田新干线列车的爱称 “こまち”正是来自于她的名字。